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        <title>my weblog</title>
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        <description>babblings!</description>
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            <title>心を柔軟に</title>
            <description>	　聖書の言葉は生きていて､力があります｡この言葉によって､私たちは知恵を得､導かれ､勝利を収めることが出来ます｡ですから聖書の言葉は､とてもありがたいものです｡
　ただ時折､その｢ありがたさ｣が私たちの常識を遙かにに越えていることがあります｡自分の常識を越えていると､つい聖書の言葉を疑い､信じることが出来なくなります｡
　ザカリアという人は､年老いた時､神から子どもが生まれるとの約束の言葉を頂きます｡でも常識的に考えると､年老いた夫婦に子が生まれるわけありません｡彼は疑いました｡すると､神は彼の口を子が生まれるまで利けなくなってしまいました(ルカ2:5-20)｡
　そもそも神が人となって生まれるというクリスマスの出来事も､常識的にはあり得ないことです｡｢あり得ない｣ことを｢有り難い｣と言いますね｡
　アドベントに入ったこの時､神の前に心を柔軟に､御言葉を素直に信じて､有り難い恵みに感謝して歩みましょう｡
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            <title>ことごとく歌え</title>
            <description>	　娘が洗礼を受けるということ｡とても大きな喜びを感じております｡
　彼女がどうして洗礼を受けたいと言い始めたのか｡それは､礼拝の中での特別讃美がきっかけでした｡讃美の中で､神さまの働きを覚え､その神の愛に打たれたのです｡
　聖書の中に｢主に向かって歌い､ほめ歌をうたい､驚くべき御業をことごとく歌え｣(詩編105:2)とあります｡
　忘れっぽい私たち(?)は､時に神さまから与えられた恵みを忘れ､不平不満ばかり述べてしまします｡ですから聖書は､神さまが成して下さった御業を忘れることないように歌え､と命じます｡
　讃美には驚くべき力があります｡神さまのご臨在を感じさせ､悟ることの出来なかった真理を悟らせ､心を恵みで満たし､幸いな道を選び取らせるからです｡
　私たちの讃美を通して､隣人に喜びを伝える者となれたら嬉しいですね。神の恵みの御業をことごとく歌いましょう。
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            <title>祝福される</title>
            <description>	　今日は子ども祝福式です。子どもの存在を受け入れ、子を祝福する。このことを通して教えられることがあります。
　私たちの社会は､｢報い｣によって成り立っています。働きに相応しい報酬を受け取る、という社会です。でも、これだけだと行き詰まります。弱肉強食の世界になり、弱さを覚える人は生きていけなくなります。
　それに必ず｢報い｣があるのであれば、罪の報いも常に受けなければなりません。でも、｢主は私たちを罪に応じてあしらわれることなく、私たちの悪に従って報いられることもない｣(詩編103:10)のです。
　子どもたちが祝福される。それは､それに相応しい働きがなくても祝福されるのです。
　同じように、神さまの子である私たちは、神の前に、相応しい働きをしなくても祝福される存在なのです。
　｢主は憐れみ深く、恵みに富み、忍耐強く、慈しみは大きい｣(同103:8)。祝福が私たちにも注がれていることを覚えましょう。
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            <title>雨がやんだ</title>
            <description>	　昨日､教会員のレストランで結婚式がありました｡その司式を私が執り行いました｡手作りの､素晴らしい結婚式となりましたが､戦いもありました｡
　当日は朝から雨でした｡結婚式の会場は野外でしたので､この雨が問題でした．．．
　会場についてみると､テントが張られていました｡食事をする分には問題なさそうでしたが､新郎新婦が立つ場には屋根がなく､スタッフは頭を痛めていました｡
　私もその屋根のない所に立たなくてはならないので､この雨は困ったなぁと思いましたが､祈りました｡
　イエスさまは嵐を静めることも出来るのですから､こんな雨を止めることはすぐに出来るはず!!｢信じる者には何でもできる｣(マルコ9:23)。
　式が始まる直前より､肌寒さは残りましたが､雨は見事に止みました｡｢暖かくして下さい｣とも祈るべきだったと悔やみつつも､祈りを聞いて下さる主に感謝でした｡
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            <title>開け</title>
            <description>	　イエスさまのもとに連れて来られた人がいました｡耳が聞こえず､舌の回らない人です｡イエスさまはその人のために祈りました｡｢エッファタ｣(開け)と｡
　この人は聞こえるようになり､話すことが出来るようになりました｡(ﾏﾙｺ7:31-37)
　この人は話せるようになった時､イエスさまのことを良い広めたそうです(36節)。
　私たちは普段､どんな情報を聞き､そして何を語っているでしょうか？
　ユダヤの金言に｢自分の話す言葉に注意しなさい｡その言葉が未来をつくる｣と言うものがあります｡良いことを言葉を語る人は良い未来をつくり､否定的な言葉を語る人は暗い未来をつくりだす､ということです｡
　神さまの恵みは全地に注がれています｡もし私たちが心の目を開いて見るならば､神さまへの感謝が溢れてくることでしょう｡
　主は｢エッファタ!!｣と祈って下さいます｡神さまの恵みの世界を見て､喜び､感謝し､礼拝する歩みを続けましょう｡
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            <title>抗議してみよう</title>
            <description>	　10月31日は宗教改革記念日です｡この日､マルチン･ルターがカトリック教会に対して抗議(プロテスト)することにより､プロテスタントの教会が生まれました｡
　プロテスタントは｢新教徒｣とも訳されるのですが､本来は｢抗議する者｣という方が良いのかも知れません｡
　私たちは他人に対してとやかく抗議する必要はないのですが､宗教改革を覚えるこの時､自分に対して､自分の生活に対して抗議してみてはいかがでしょう？
　現在は日本全体がマスコミ教にかかったかのように､マスメディアの情報に翻弄されています｡
　聖書からの情報と､世の情報｡どちらに重きが置かれていますか？
　信仰的決断と､人の目を気にした決断｡どっちが多いですか？
　この時､もう一度｢初めの愛｣(黙示録2:1〜7)を思い起こし､悔い改めて立ち返ってみる必要があるかも知れません｡
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            <title>主は善いお方だから</title>
            <description>	　｢数え年｣という年の数え方があります｡生まれた時を１歳として､年が改まる毎に１歳ずつ加えていく数え方です｡なぜ生まれた時に１歳と考えるかというと､母親のお腹に妊娠した段階で０歳と数えるからだそうです｡妊娠した段階で､一人の人になるのです｡
　命の捉え方として､素晴らしいなぁと思いました｡
　今回､私たちは流産となってしまいました｡まだ見ぬ子を失うとはどのようなことか､想像もしていませんでした｡妻は精神的､肉体的な苦痛を味わいました｡
　まだ見たことはなかったけど､この子を失うことで､｢神さま､どうしてですか!?｣との疑問を投げかけました｡でも神さまは無言です｡そして先週の説教を思い出しました｡
　｢それでも､主は善いお方だから､善い事を成して下さる｣｡
　聖書には神の全能の御業､たくさんの祝福の約束､信仰の勝利が記されています｡この御言葉が私たちの心を慰めてくれました｡
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            <title>身内に対して</title>
            <description>	　先々週から妹が来てくれています｡ちょうどちさこ先生が妊娠し､体調がよくない時でしたので､とても助かっております｡
　ただ､妹というのはなかなかやっかいな存在で､兄の欠点をよく知っています｡そしてズバズバと指摘できる存在なのです｡そのせいか､ちさこ師の話しは素直に聞けても､兄の話は｢長い｣の一言で片付けられてしまいます｡
　身内に認めてもらうというのは､かなり難しいということを､今更ながらに痛感しております｡
考えてみれば､イエスさまでさえも故郷では受け入れて貰えなかったようですから(ﾏﾙｺ6:1-6)｡ただこの場合､問題はイエスさまではなく､故郷の人々の心でしたが．．．。
　主を信じれば､あなたもあなたの家族も救われます(使徒16:31)との約束もあります｡そのためには､身内に認められる程に神の愛を現す｢行い｣が必要のようです｡祈りつつ､神の愛に満たされ､愛を実践しましょう｡
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            <title>種を蒔く時</title>
            <description>	　ある人が種を蒔きました｡悪い地に落ちた種は､鳥に食べられたり､根を張れなかったり､茨にふさがれたりしたそうです｡でも､良い地に落ちた種は30倍､60倍､100倍の実をつけたそうです｡
　この人はどんな気持ちで､どこに種を蒔いたのでしょうか？｢どこでも良いから､とりあえず種を蒔いとこ｡運が良ければ収穫できるし｣なんて思いながら種まきしたでしょうか？そんなことないでしょうね｡
　自分が耕した地に､収穫を期待しながら蒔いたことでしょう｡地を耕せば耕すほど､収穫出来る可能性は広く､大きくなってくるのです｡
　時折､地を耕しもしないで､収穫だけ期待する人がいます｡これは何も得られない､と思った方が良いでしょうね｡
　私たちは期待して耕し､畑の面積を増やしましょう｡耕すのです｡自分の心を｡人間関係を｡仕事を｡その時､神さまの御言葉という種は30倍､60倍､100倍の実を結ぶのです｡
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            <title>わたしが導く</title>
            <description>	　目標を達成するということは､辛いものです｡私はこの夏､かなりのものを身につけてしまい､これを落とすのに必死です．．．
　でも､何を｢目標｣とするか､ということが大事ですね｡本来｢目標｣とすべきではない所を｢目標｣としてしまうことがあるからです｡
　私たちを正しい場所に導こうとされる神さまは､本当に優しいお方で､｢わたしはあなたの前に使いを遣わして､あなたを道で守らせ､わたしの備えた場所に導かせる｣(出ｴｼﾞ23:20)と言われるのです｡
　この方は､私たちが間違った目標を掲げ､違う方向に行こうとした時､必ず､私たちに過ちを気付かせようとします｡その時の気付かせ方ですが､大抵は｢苦しみ｣です｡
　間違った方向に進むことを､聖書は｢罪｣と言います｡罪があると､神さまとの関係がおかしくなるので､苦しみが生じるのです｡
　苦しい時､ちょっと立ち止まり､自分の目標､やっていること､神さまの前で確認すると良いでしょうね｡良い道が開かれますよ｡
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