2001年6月24日

説教 終点を見つめて

 皆さんのお祈りに支えられ、無事にトルコの旅を終えて帰ってまいりました。 特に大きな事故や病があった訳ではなかったのですが、3日目よりおなかの調子が 悪くなりまして、せっかく素晴らしい遺跡を見に行ったりしても、何か半分しか楽 しめなかったような気がしております。ただ、何度もトイレに駆け込んでいるので、 トイレの使用方法だけはしっかりとマスターしてきたつもりです。

 研修旅行の話はまた機会があればいたしたいと思いますが、このような遺跡を 回っている時に、大きな感動と共に、恐ろしさも覚えました。

 非常に豊かな町であったはずの場所には、今では遺跡が残っているだけなのです。 その遺跡を訪ねるだけで、パウロの旅路を思い、使徒行伝を見る目が変わる訳です が、それらの栄え続けた街が、今では誰も住んでいない、遺跡として残っているの です。また遺跡としてまだ発掘されずに残っているのです。せっかくパウロが伝道 し、多くの人が救われ、神の御業が豊かに成された街であっても、その後の歴史を 見るときに、ローマ皇帝による迫害や、イスラム教徒による弾圧、様々な出来事の 中で神様の恵みは他の地域へと飛び散り、今は遺跡となっているのです。

 今日お読みいたしました聖書箇所は、金持ちに対するイエスさまの言葉でありま す。当時はどのような問題であれ、解決が難しくなれば、尊敬されていた先生 (ラビ)の所に行き、律法と照らし合わせてその問題を解決していただく、という 風習がありました。そこで、一人の人がイエス様に「遺産を分けてもらえるように してください」と頼みました。これは、その人がイエス様を尊敬している、という 証拠の言葉です。普通の律法学者がこの言葉を受ければ、尊敬されているという思 いに満たされ、喜んで事情を詳しく聞いて、その問題に対する対処の仕方を考えて くれたでしょう。ところがイエス様はそのようなことを私に頼むのは見当違いだ、 と言うことを言われるのです。そして財産を持っている人々に対しての警告が、た とえ話と一緒にされているのです。

 どのような警告でしょうか?神の前に豊かになるとは一体どのような意味でありま しょうか?

 そのことは、反対の意味でイエス様は示して下さいました。
まず、15節「貪欲にはよく警戒しなさい」ということでした。なぜなら「人の命 は持ち物によらない」からであるとイエス様は言われました。貪欲とは一体なんで しょうか?私たちは「貪欲」が何であるのかをまず見極める必要があります。

 教会におきましては、ビジョンを打ち立てます。これはなぜでしょうか?中心が 神様にあっての計画です。そして神様を中心にしての貪欲と思われるほどの意欲は、 貪欲ではないのです。

 では、自分の生活において、自分の生活を楽にしたい、金儲けしたい、名誉を得 たい、自由になりたい、というような思いはどうでしょうか?これらにはまず「自 分が」がきます。ですから中心は神様ではなく、「自分」なのです。この場合はそ の目標に向かって貪欲と思われるほどの意欲は、貪欲になります。ならば全てが 「神のため」であるかどうか判断出来ればもう大丈夫か、というとそうだ、とも言 い切れないのです。人はしばしば「神のため」と言う妄想のゆえに大きな間違いを 犯すものであります。それが迫害であったりするのです。今回私が見て参りました 洞窟の住まいは、その迫害によってクリスチャンが逃げ、隠れて生活するために作 られたものでありました。しかし、迫害をする側は、それこそ「神のために」とい う思いで迫害をしてきたわけです。

 パウロもそうでした。彼もクリスチャンを迫害することこそ「神のため」と信じて いたのです。

 では、「神のため」と信じ、確信していても実は間違っているかもしれない、とい うことはどのようにして知ることが出来るのでしょうか?サウロと呼ばれていたパ ウロはどうだったのでしょうか?

 彼はイエス様に語りかけられたのです。御言葉によってでありました。教会におけ る礼拝、そして御言葉の説き明かし、それは必ずしも私たちの耳に心地良いもので はないはずです。私自身つらいのです。でもそこで開かれる御言葉によって私たち は毎週、毎日軌道修正をして何が本当の神の思いであるのかを知ることが出来るの であります。

 イエス様は私たちに「貪欲によく警戒しなさい」と言われました。御言葉によって、 何が貪欲であるのか、よく注意して参りましょう。続いて、金持ちは新しい蔵を 作り、19節「自分の魂に食え、飲め、楽しめと言おう」、と言っております。 そのことに対して神様は、「お前の魂は今夜取り去られる」と言われるのです。 せっかく苦労して手に入れた財産も、これから楽しもうとした時に失ってしまう、 というのです。非常に悲惨な話であります。この世的に考えれば、その人はこれか ら先十分に楽しんで良いと思えるくらい一生懸命に働いた。その報いがまるでない ではないか、となってしまいます。これでは、イエス様は私たちが食べたり飲んだ り、また楽しむことを喜ばれないのか?ということになります。これでは禁欲的な 非常につまらない人間になってしまうのではないでしょうか?イエス様は一体何を 望んでおられるのか?それは魂に何を満たしているか、ということが重要になって くるようであります。

 この魂という語は「プシュケー」と言う語が使われておりますが、ユダヤ人の観念 によれば、魂はあくまでも神の所有物であると言うのです。また、聖書の言う魂は、 私たち人間の人格全てを表した言葉になるのです。そしてこの神様の所有物であり、 私たちの全人格を現すところに何を満たしているのか、ということが問題になるの です。この金持ちは、「自分の作物」「自分の蔵」「自分の魂」に気をとめていて、 そこに神様が入る余地はまるでありませんでした。そして最後はこの世の食べ物、 飲み物、楽しみだったのです。

 私たちは生まれ持って自分の顔を持っております。もうちょっと鼻が高かったら、 とか目が大きかったらとか、色々注文をつけたくなるかもしれませんが、これは 生まれ持ったもので、どうすることもできません。しかし、エイブラハム・リン カーンは40歳を過ぎたら自分の顔には責任を持て、と言いました。自分の魂を何 で満たしているのか、どのような思いに満たしているか、どのような思いに満た されて生きているか、によって自分の顔はいくらでも変わるものです。

 神様は律法を私たちに与えて下さいました。それは私たちを禁欲生活に縛るため ではなく、私たちが本当の自由をもって、本当の楽しみを味わって生きるためで ありました。この恵みに満たされて生きていかなければ、私たちの魂は当然喜び で満たされませんし、偽りの楽しみで生きていれば、自然に顔にも現れてくるで しょう。私たちに「しなければならない」という強迫観念は存在しないのです。 神様から与えられるところの喜びに満たされて参りましょう。

 最後に、21節「神に対して富まない者」という言葉があります。神の前に富むと は一体どのようなことでしょうか?

 パウロが回っていた町々。非常に商業が盛んであり、富んだ町々でした。立派な 劇場や浴場、遊び場がたくさんあり、非常に富んでいると思われる町々でした。 その中の一つにラオディキアという街があります。その教会に宛てられた手紙の 中で、イエス様はこのように語りました。「あなたは、自分は富んでいる、豊か になった、なんの不自由もないと言っているが、実はあなた自身が惨めな者、あ われむべき者、貧しい者、目の見えないもの、裸な者であることに気が付いてい ない。そこで、あなたに勧める。富む者となるために、わたしから火で精錬され た金を買い、また、あなたの裸の恥をさらさないため身に付けるように、白い衣 を買いなさい。また、見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい。云々」 (ヨハネ黙示録3:17、18)こう言われている訳です。神の前に富む者となりな さい、というのが神様からのメッセージです。そしてこのような勧めに聞き従わ ないでいた町はどうなったのでしょうか?遺跡です。昔は栄えていた、と思わせ る立派な遺跡でした。そして神の勧めを聞いた人々は他の地で御言葉に養われた のです。

 ではどのようにしてその金を買い、白い衣をまとい、目薬をぬるのでしょうか?

 こう言われると今から何かを求めなければ、と思ってしまいますが、そうでは ないのです。それらを買う手段としてイエス様は「だから、熱心になって悔い改 めなさい。見よ私は戸の外に立って、叩いている。誰でも私の声を聞いて戸を開 けるなら、私はその中に入って彼と食を共にし、彼もまた私と食を共にするであ ろう」(黙示録3:19、20)

 神様と私たちとの関係は非常にアンフェアーな関係であります。神様は惜しみな く注ぎ出すお方であり、私たちはそれを受けるだけの存在です。しかし、これこ そが、神様の求める私たちのあるべき姿なのです。

 何の功績もない私たちを、神様はひとり子を十字架に架けることによって救って 下さり、正しい者、神の前に咎の無い者としてくださっているのです。

 私たちが受けた十字架の恵み。これこそが、私たちを最終的に豊かに富ませ、 神の前に本当の命を得る手段であります。この十字架がない時に、どんなに豊か に栄えようとも私たちはやがて滅び行く身です。最後には十字架しかないのです。 私たちはこの十字架から目をそらさず、この十字架のゆえに貪欲ではない希望に 心を燃やし、十字架ゆえの自己中心でない楽しみで心を満たし、十字架のゆえに 神の前に豊かに富むものとさせていただきましょう。