喬木教会礼拝説教
2001年7月15日
信仰の実
聖書箇所 ルカによる福音書 12章49〜53節(P.133)

 ご利益的な宗教が蔓延する中、キリスト教であっても信仰を持つと何か素晴らしい ことがある、又は何も問題が起こらなくなる、と思ってしまうことがあります。 しかし、私たちの人生に問題が起こらない、何てことがある訳がありません。 そのような勘違いがあると、私たちの信仰は根をはることも出来ませんし、 実を結ぶことも出来なくなってしまいます。私たちの信仰は、信仰を持っている からこそ、逆につらい状況、環境の中に入らざるを得なくなるのであります。

 前回までの箇所で、イエスさまは、信仰を持つことにより神の国に入れられる ことの素晴らしさを教えて下さいましたが、今朝は、そこにたどり着くまでの厳しさ について語られているのです。私たちが信仰を持つがゆえに、とてもつらい所を 通らされるというのです。それを黙示文学的に語られている訳です。

 この箇所を読む時に、私たちは恐れを感じないでしょうか?そして裁き的な メッセージを読み取ってしまうものであります。私自身がそうでした。 「火」が投じられて、「分裂」が語られているのですから、そう読み取って当然とも 思えます。しかし、私たちがその様な箇所を読む時に気を付けたいのは、 「これは誰からのメッセージか?」ということであります。それは決して意地悪く、 私たちを陥れようとしている方からのものではありません。逆に、私たちを愛し、 私たちのためにその身も惜しまずに捧げて下さるような、その様なお方からの メッセージであるのです!!

 そのことを念頭におきながら、御言葉に聞いて参りましょう。まず何と言われて いるでしょうか。

 イエスさまが来られたのは、「地上に火を投ずるためである」と言われます。 しかも「その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」と言われるのです。 火を投げ込むために来られ、その火がもう燃え盛っていることを願っている と言うのです。何かひどく残酷なことを願っているのがイエスさまのような 気がしてしまいます。

 ところがこのことを、私たちを愛して止まない方からの言葉として聞きなおします。 するとまず、イエスさまが願われることは、私たちにとって良いことのはず、という ことがまずわかりますね。続いてその内容を分析してみます。

 この「火」という言葉は黙示文学的表現であると言われております。聖書の最後に 黙示録がありますが、その中で、この地上に対する裁きの時に「火」という語が 用いられています。そのようなこともあり、この火は終末における裁きを現す と考えられているのです。

 洗礼者ヨハネはメシアに対してどのようなことを望んでいたでしょうか。 「私はあなたたちに水で洗礼を授けるが、その方(メシア)は聖霊と火であなたたちに 洗礼をお授けになる」(Luk3:16)と言っています。聖霊による洗礼を受けて、非常に 恵まれるのですが、同時に火で焼かれ、清からぬ者は焼き尽くされる、という裁きの 意味が込められていたようです。ということは、既にその火が燃えていることを望む イエスさまは、清くない民を滅ぼし尽くそうと考えておられたのか?せっかくの 福音を告げ知らせているのにケチをつけられ、嘲笑されれば憤りも覚えるでしょう かねぇ。

 でもそう考えると次の言葉はどのような意味を持つのでしょうか。「しかし、私には 受けねばならない洗礼がある。それが終るまで、私はどんなに苦しむであろう」。

  火が投じられて、既に燃えているのであれば、そこには清い者、イエスさまを 受け入れている者のみが存在する訳ですから、何も苦しむ必要もないはず なのですが、その火が燃えるためにはイエスさまが「どんなに苦しむこと」を 経験しなければならないと言うのです。

 この洗礼という言葉は、水の中に沈むという意味があります。そして沈む、 ということから、参った状態、世間の荒波の中を通るという意味、人に襲いかかる 苦しみの中を通る、という意味に使われております。ですから、洗礼を受ける、 ということも、イエスさまの苦しみの死に預かり、水の中で自分が死ぬ、という ことを意味しております。

 ですから、洗礼そのものが非常に苦しいものであることが伝わって参ります。 しかし、イエスさまをメシアだと信じている人にとっては、この言葉は少し幻滅する 言葉でもありました。

 当時の人々は、メシアは軍隊を引き連れて、イスラエルを独立させる王が来る、 と信じていたのであります。そのメシアが来る、ということは、イスラエルの黄金時代 となる、ということを期待していているのです。そのメシアが、受けるべき苦しみを 憂いている。注射を恐れる子どものように。非常に弱弱しい姿を見るのであります。

 しかし、なぜイエスさまは、出来れば避けて通りたいと思うような苦しみに、あえて 自分から進んでいって、それを「受けねばならない」と考えるのでしょうか。

 火を燃やすためにご自身が苦しむ。それは、私たちを救いたい、というイエスさまの 強い願いからではないでしょうか。イエスさまが背負う苦しみは全て私たちのため なのです。私たちであっても、愛する人のためには自分が苦しみを負っても良いことを してあげたいと思うものです。私たちを本当に愛しておられるイエスさまなら なおさらです。私たちが救いを受け、心からの喜びに満たされるために、ご自身は あえてその苦しみを通られる決意をし、そして実際に通って下さったのであります。

 それが十字架でありました。自分の愛する弟子に口付けによって裏切られ、 祭司たちや兵隊たちから殴られ、唾かけられ、侮辱され、ムチうたれ、体が ボロボロになった上に、今まで病を癒し、悪霊を追い払ってあげた群集までもが イエスさまを十字架につけろ!!とわめきたてているのです。自分が愛し、散々 世話をした人々からののしられ、十字架につけろ、死ねと言われたらどんな気分に なりますか?もう心身ともにボロボロでしょう。

 そのボロボロの状態で、イエスさまは十字架を担ぎ、私たちのために、十字架に 釘打たれ、十字架の上でなお私たちのために執り成しの祈りを捧げ、十字架の上で 私たちのために死んで下さったのです。

 その苦しみという洗礼を受けてくださったイエスさまのゆえに、現在私たちは、イ エスさまが十字架によって、私たちの罪全てを贖って下さったと信じるだけで、清 い者とされ、罪が赦されるのです。この恵みは、イエスさまが私たちを愛し通して くださったゆえに与えられたものなのです。

 さて、そのイエスさまが私達に告げることは、火を投じるために来られた、そして 51節からは平和ではなく、分裂をもたらすために来た、と言われるのです。なぜ 分裂なのでしょうか?

 私たちのために命を捧げて下さったイエスさまを信じることにより、様々な地域を 混乱させてしまった人物が聖書にも記されております。その人物がパウロです。

 彼はイエスさまを信じる者は異端者だと思い、最初はクリスチャンと(後に)呼ばれる 人々を迫害し、牢に入れ、死刑にすることにも賛成をしていました。ところが、イエス さまが彼に現れ、ご自身こそが主であることを示してから、彼は全く変わりました。 そして今度は福音を伝える者へと変えられたのです。

 その姿を見た人々は驚きました。最初は受け入れることさえ出来ないほどでした。 後にクリスチャンに受け入れられ、共に働くようになり、そしてユダヤ人たちからは 命を狙われるようになったのです。今まで生活を共にしていた人々から命を狙われる ようになったのです。

 そしてかつての仲間から命を狙われ、その他幾度も命を損なう危険な経験をしながら も、パウロはキリストに従うこと以上に素晴らしいことはない、ということを告白 するようになっているのです。

 私たちがイエスさまを救い主として信じ、信仰を持つ時、私たちの周りはどうなり ましたか?家族から大いに喜ばれた方はいらっしゃいますか?その方の家族はおそ らくクリスチャンホームでしょう。家庭にクリスチャンがいなくて、自分が信仰を 持つようなった、その方の場合はほとんどが、嫌な顔をされ、時に反対され、時に 勘当されているのです。喬木教会でも、家族の方に気を使いながらの信仰生活を送 らざるを得ない方々が多くいらっしゃいます。

 イエスさまは、その状態を当然だ、と言われるのです。それはメシア到来の時にそ うなるであろう、という預言が旧約の時代からなされていることだからです。53 節は旧約からの引用であります。ミカ書7章6節(旧P.1,457)です。

 「息子は父を侮り、娘は母に、嫁は姑に立ち向かう。人の敵はその家の者だ」。 これがイエスさまを信じ、受け入れる時に成就してしまうのです。

 ですから、私たちが信仰を持ち、周りの人と上手くいかなくなる、それは当然の ことであり、正常である、ということです。しかし、いつまでもそれで良いので しょうか?イエスさまは「分離」という言葉を使われましたが、その言葉はギリシ ャ語のクリネイン。「裁く」と同じ意味なのです。この裁きにあって、分離するだ けがイエスさまのしるしになるのでしょうか?

 聖書の他の箇所を見てみますと、「実に、キリストはわたしたちの平和であります。 二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則 と戒律ずくめの律法を廃棄されました」(Eph2:14,15)とあり、なお「十字架 を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされま した。」(16)とあります。

 イエスさまによって与えられる聖霊の実は和解であります。この和解は十字架を 通してのみ本当の意味で行われ、そしてその実は平和を築き上げるものなのです。

 イエスさまは最初に火が既に燃えていたら良い、と言われました。裁きの火、 ということでした。でも、黙示録の3:18には、「そこで、あなたに勧める。裕福に なるように、火で精錬された金をわたしから買うがよい。」と言われております。 火で精錬されることにより、金や銀、そして私たちも不純物が取り除かれ、全く のキリスト愛で満たされた私たちが出来上がるのです。

 そうなると、最初は争いが起こるでしょう。それは避けては通れないのです。 しかし、最終的には、キリストの実は和解と平和なのです。

 誰がこのメッセージを私たちに下さいましたか?私たちを愛して愛して、愛し通 された方です。この方が、私たちがへこむようなメッセージを下さるでしょうか? 主は、私たちが天の国にたどり着くまでにどのような道が備えられているのかを教 えて下さったのです。

 十字架のゆえに、神との和解を遂げさせて下さった恵みに応答し、私たちも今は 争いかも知れない人々に対しても、火によって練り清められた愛をもって和解の 手をさし伸ばそうではありませんか。

 私たちの信仰の実は平和であるのです。豊かに実らせ、多くの実を収穫させてい ただきましょう