喬木教会礼拝説教
2001年7月29日

初   心

聖書箇所 ルカによる福音書 13章1〜9節(P.134

 

今朝の聖書を見る時、まず「何人かの人が来て」イエスさまに一つのことを報告しております。どんな内容かと言いますと、「ガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」ということです。ガリラヤ地方で伝道されていたイエスさまに対するこの報告にはどのような意味があったのでしょう?

 

時代背景:ガリラヤの人たちは、非常に激しやすい性格だったと言われております。そのため、よく政治的問題に巻き込まれる傾向があったそうです。このガリラヤ人が、ピラトの行う工事などに対して反発をしていたようです。それに対して、脅しの意味もあったのでしょう。神殿でガリラヤ人を見せしめ、という形で殺害し、その血を自分たちのいけにえに混ぜた。それは宗教的に最高の侮辱を行った、ということであります。

ガリラヤ人たちが反対していたであろうと言われるピラトの行う工事ですが、それはエルサレムに水の供給が必要で、その水を流すための工事をしていたようなのです。しかし、その途中で事故が起こり、シロアムの塔が倒れ、18人の人が死んだとも言われます。

なぜその工事が罪深かったのか、ということでも、その費用を神殿に捧げられたお金でまかなっていたからだ、と言われております。神殿のお金をそこに費やすべきではない、と考える人々にしてみては、神のものを勝手に自分のもとのしてしまうのですから、大きな罪だと考えられたのです。ですから、事故で多くの人が死んだことも当然の結果だ、と考えていました。ファリサイ人の持つ教義の中には、罪を犯した者が何らかの災難を被るというようにあるからです。罪の結果の災い、と考えるのです。

 

そこで私たちに語られるイエスさまの言葉は:決してその死んだ人々が特別に罪深い者たちであった、ということではない。「あなたがたも悔改めなければ、皆同じ様に滅びる」とイエスさまは言われるのです。裏を返せば、「あなたたちも悔改める必要があるのです。悔改めて、命を得なさい」ということかも知れません。

ですから、悔改める、ということを求められているのです。そもそも人間の内に善がない。義人がいない、ということを聖書は語っております。ですから、悔改めは日々必要なことではあります。でも、この箇所では、私たちの犯す罪に対しての悔改めが促されているのでしょうか?6節からのたとえ話を見ると、そうではない、ということがわかります。

 

イエスさまのたとえ話:イエスさまは一つのたとえ話をされました。いちじくの話です。いちじくは、3年も経つと成熟期に入るそうですね。ですから、豊かな実を結んで良い頃であります。所が実を結ばない。その農場の主人は、こんな邪魔な木は切ってしまえ、というのです。そこに園丁が現れて、まだ待って下さい。もう少し待ちましょう、とこの木をかばってくれているのですね。

この木に降りかかろうとする恐ろしい結末を自分自身のことの様に捕らえ、主人に執り成しをしている園丁の姿があります。この園丁の悔改めはこうです。「あぁ。私が木の周りを掘って、肥やしをあげなかったのが原因だ。すぐにそれをしますので、もう一年待って下さい」。

 

何に対しての悔改めか:随分前の話になりますが、ある宗教団体が非常に惨い事件を起こしました。そして教祖が捕らえられました。誰もがその教祖を憎みます。死刑になって当然である、と考えます。そんな時、数人の牧師は、「私は彼のために祈る」、と言いました。またある牧師は、「私がもっと伝道をしていれば、彼が悔改めに導かれていて、こんな事件を起こさずにすんだかも知れない」、と言って、「今からでも彼の所に行って伝道する」。と言いました。

この園丁や、牧師たちは何に対して悔改めをしているのでしょうか。自分に対しては害しか及ぼさないような、又は無関係な事柄に対しての悔改めです。でも、なぜ悔改めるのですか?このいちじくの木に対しても、また大きな間違いを犯した人々に対しても、神さまが大きな期待を持ち続けて下さっているからです

 

神さまの期待:神さまは、私たちの現状に対して諦めたり、憤ったりするお方ではありません。私たちが豊かな実を結ぶ神さまの枝となることを常に期待して下さっているのです。そのために、御子イエスさまを十字架につけてまで、私たちを救おうとされたのです。神さまは、私たちの将来に対して、素晴らしい期待を持っていらっしゃるのです。

 

イエスさまのとりなし:園丁が主人に、「私がもう一度面倒を見ます。どうかもう一度チャンスを下さい!!」と言ったその言葉は、まさに私たちの罪を贖うために十字架につき私たちのために祈ってくれたイエスさまの言葉ではないでしょうか。この祈りによって罪が赦され、過去の重荷から解放された私たちは、人を「罪のせいで裁かれた」などと思うべきではないのです。逆に、その人々のために祈れなかった。手助けをしてあげられなかった。福音を伝え切れなかった、そのことをイエスさまに倣って悔改めるべきではないでしょうか。イエスさまが負って下さった傷、痛み、苦しみを自分のもとすると同時に、私たちの周りの人々が負っている心の傷や、苦しみを私たちも共に負い、その人々のために祈る。これが、神さまが私達に求めておられることであるのです。

 

私たちが実を結ぶまで:神さまは私たちが豊かな実を生活の場で実らせることを期待してくださっているのです。でも、神さまに繋がっていなければ、どんな実を結ぶのか、どうやって成長するのかもわかりません。

園丁は、「周りを掘って、肥やしを」やる、と言いました。そう考えるとどうでしょう。私たちの周りって臭いことが多くはないでしょうか?また時に、剪定されているような痛さを感じませんか?あるいは、果物がよく日光にあたるように銀色のシートを引かれ、焼かれるような熱さを感じたことはないでしょうか?それらを私たちは「試練」と呼んだり、「困難」と呼びます。私たちは人生において、この苦しい体験をすることにより、より成長させて頂いているのです。そしてそれら困難や試練は、(ヤコブ1:12)試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです」と言われている通りなのです。

ですから、決して実を結ぶまでは楽なものではないかもしれません。でも、その苦しみの後には、本当に大きな喜びがあるのです。

 

私たちの悔改め:イエスさまによって罪赦され、解放された私たちです。この恵みに満たされて、今度は他の人の分まで祈れる器とさせていただきたいものです。しかし、救われた私たちであっても、自分の「我」が生きていますと、どうしても様々な思いが入り込んできます。「あの人はあんなことをした」「あの人はそんな価値がない」とか勝手判断をして、他の人を「罪のせいで死んだ。罪深かったのだ」と勝手に裁いてしまうことになるのです。

まず、人を裁いていたことを悔改め、心をまた新たにしていただく必要があるのです。その上で、今度は他の人の執り成しの祈りを捧げるのです。また、他の人のために祈れない時に、そのことを悔改めるのです。

イエスさまの十字架によって罪に死んだ時の心。救われた当初の心を常に持ち続け、イエスさまが祈られたように、私たちも神さまが期待されていることのゆえに、祈りを捧げ、豊かな実を結ぶ人生を送りましょう。