喬木教会礼拝説教
2001年8月5日

恵みと律法

聖書箇所 ルカによる福音書 13章10〜21節(P.1345

 

 

聖書箇所の概略:腰が曲がったまま、18年間も癒されることなく過ごしていた人がいました。原因は記されていないのでわかりません。ですから推測ですが、腰が曲がってしまった最初の頃は、一生懸命腰を伸ばそうとして、治療法を求め、薬を求めていたのではないでしょうか。ところがその病は癒されることはなかった。そのまま18年間も腰は曲がったままです。もう治療法はない。これは一生付き合っていく病だ、とこの女性はあきらめていたのではないでしょうか。

そんな彼女ですが、神さまを礼拝する、という行為だけは欠かさず守っていたのでしょう。いつものように神殿に行き、神さまを礼拝しておりました。するとそこには、今巷を騒がしているイエスさまがいらっしゃいました。そしてそのイエスさまが自分を見て、12節「呼び寄せ」たのです。

この女性は、イエスさまの呼びかけに対して素直に応じました。イエスさまのもとにいくと、「婦人よ、病気は治った」と言われるのです。そしてイエスさまが手を置くと本当に治ったのです。腰が伸びたのです。

 

女性が癒された理由:イエスさまが手を置いて下さったからでしょう。でも、そのことよりも私は、彼女はイエスさまがお呼びになった際に、素直に聞き従い、イエスさまのもとに行った。これが癒されるための大きな原因があるように思えるのです。

 

従うことの難しさ:呼ばれたから前に出る。別に何気ない行為のように思います。しかし、当時の状況を考えますと、この婦人の行動はとても勇気ある行動であったのです。

聖書においては、女性が人前に立つ、ということは恥ずべき行動だと思われていました。神殿での発言は女性には認められていないのです。ですから、いくらイエスさまが彼女をお呼びになっても、当時の習慣、規則、律法から見れば、彼女は前に出るべきではないのであります。

 

従った結果:ところが彼女は、イエスさまの言葉を聞き、それに従ってイエスさまの前に進み出たのです。その結果、この彼女は、18年間患っていた病が癒されるという大きな恵みを受けたのです。彼女が癒される、という恵みを受けたその陰には、どのような状況にあろうとも神さまの御言葉には服従する、という信仰を持っていた、という理由があるのです。

 

私たちはどうするか:神さまの言葉に従う。神さまが要求されることをそのまま行う。これらは、とても難しいように思います。常識的には考えられないことであっても、神さまは要求してくることがあるのです。しかしそのような要求に対してでも、私たちはその言葉に従うべきだと思うのです。なぜですか?神さまに従うことは、私達に大きな恵みをもたらすことになるからです。

この女性のように従うことによって、絶対無理、と思っていたことでさえ可能とさせてしまう神さまの恵みの御業を経験させていただく者とさせていただきましょう。

 

従うことの難しさ:もともと善を持たない私たち人間の思いは、聖であり、義である神さまの思いとはことごとく反発するからです。反抗したくなってしまうのです。さらに、この世の誘惑がまた非常に魅力的なのです。

この世の魅力にとり付かれたら、心の豊かさを置き忘れてしまいます。すると、永遠の命を得ようとするよりも、一時の快楽を選んでしまうのです。この世の誘惑は人を罪の中へと引きずりこむのです。1テモテ6:9に「金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます」。この破滅こそが罪の招く結果です。そしてこの罪に支配される時、私たちは神さまの言葉に従うことはおろか、神さまの方を見ることさえ出来なくなるのです。これが難しさの原因になっております。

 

御声に聞ける強さの出何処は:十字架です。私たちの罪はどう仕様もなくなるほど、私たちを束縛し、物事を真っ直ぐ見よう、正確に捉えようとしても、それをすることが出来なくなるように、腰を曲げてしまうのです。そこにイエスさまは介入して下さり、十字架という自分の命をかけ、血潮を流す行為により、私達に愛を示し、この愛のゆえに罪より私たちを解放してくださったのです。自分のための十字架を信じる所に、御声に聞き従う強さが生じます。

 

二つの律法:人を縛る律法に生きる会堂司は、14節「平日に癒されるべきだ」というのです。それに対してイエスさまは、会堂司が持っている律法を引用して、恵みの内に生きていれば安息日に癒されても何の問題もない、というのです。同じ律法を用いても、二つの解釈が出来てしまうのです。私たちはどのように解釈しますか?

 

イエスさまの目的:この地上に御国を来たらせることであります。そのために、この癒しの後に神の国についての話しをされました。そして後に「神の国はあなた方の間にあるのだ(17:21)と言われたように、私たちは十字架の血潮で罪赦され、この恵みによって神の国の住人とさせていただいたのです。この恵みは、受ければ受けるほど、大きくなり、まさに私たちの間に神の国が形成されていくのです。そしてその場が教会でもあるのです。

 

私たちの生き方:律法に生きる時、お互いに裁き始めるので、喜びどころか、人間関係がせばまっていきます。恵みに生きる時、罪から解放され、神さまを誉めたたえる人生へと変えられます。

私たちが受けたのは、人を束縛する律法ではなく、人を罪から解放する恵みでした。この恵みに生かされ、信仰の生涯を全っとうさせていただきましょう。信仰は、人を自由にし、喜びに満たすものです。