喬木教会礼拝説教                             2001.8.12

「神様のなさる業」

聖書箇所 エフェソ信徒への手紙4:12〜16(P356)

 

 今年もこのようにキャラバンで、喬木教会に使わされ、奉仕ができることを感謝いたします。八日と九日にわたって行われたジュニアチャーチのキャンプにおいても、奉仕者一同が守られ、用いられましたことも感謝です。ジュニアチャーチのキャンプは、それを通して教会へつながる子供が起こるようにとのねがいを持って行われましたが、そのためにまず、奉仕者が一つとなってそれぞれの働きをなしていくと言うことが大切であると思います。

 そのように、私達が神様のための働きをなしていくときには、一つとなる、と言うことが重要です。また、何によって一つとなるか、と言うことでその働きの方向性も変化してくるでしょう。

 私達は神様の御旨を行うものでなくてはならない。そして、イエスキリストの十字架によって一つとされたのです。

 さて、このエフェソ信徒への手紙ですが、ローマによってとらえられていたパウロによって書かれ、獄中書簡と呼ばれる手紙の一つです。イエス様に対する健全な信仰を保って教会が成長するように、そしてまた、異邦人の救いについても書かれています。それは、全ての民が、キリストにあって一つとされ、救われるようにとのパウロの熱い願いです。それは同時にイエス様の願いでもあります。

 

 今日のテキストを見ますと、ちょうど3つの文章があることが分かります。12説〜13節と14説〜15節、そして16節です。

 1,キリストにある一致と成長。(v12〜13)

 「こうして聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ」とあります。聖なる者とは、イエス・キリストの贖いによって「世」から分離され、聖別された者という意味で、教会すなわち選びの民の中に加えられた者としてこの名が与えられているのです。このように、聖なる者はその身分を神の召しによって得たものであって、特別に立派な人を指して言う言葉ではありません。聖なる者とは、イエス・キリストの十字架の血によって罪をきよめられ、その血に免じて罪がないと見なされ,神の御用のために世から選び分たれた「罪赦された罪人たち」です。つまり、私達クリスチャン一人一人が、神の恵みにより奉仕の業に適した者とされたのです。

 そして、その奉仕の業によって私達はキリストの体を作り上げていくと言われています。それは、キリストを頭とする真の教会です。

 教会を作り上げてゆくことにより私達に二つの事柄の一致が与えられるということが書かれています。一つは「神の子に対する信仰の一致」もう一つは「神の子に対する知識の一致」です。私達は一つとされ、主の恵みのよって成長させられる。しかしそれは、私達一人一人の考え方や個性までもが全く無視されて、なんの違いもない人間にさせられるのではありません。私達の考え方は一人一人様々、受け取り方や表現も様々です。しかしその目指すところ、心を向けるべきお方は神、イエス様なのです。

 私達はそれぞれに役割が与えられています。教会においても、日常においてもそうです。それぞれに与えられた持ち場立場においてイエス様を証して行く、信仰を守って行く、そうすることにより私達に一致が与えられて行くのではないでしょうか。

 一致することにより成長し、成長することによってなお一致が与えられます。「キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長する」とある通り、私達はイエス様によって恵みに満ちあふれ、整えられていくのです。

 私はこのことを去年のこの喬木のキャラバンで感じさせられました。ぼや騒ぎという、非常にたいへんな出来事でありましたが、そのことに対して教会員のみなさんひとりひとりが一つとなってその困難を乗り越えていく様をかいま見ました。これこそまさに、キリストにある一致ではないでしょうか。

 2,愛に根ざして真理を語る者とされる。(v14〜15)

 今日のテキストから二つ目に読みとれることは、私達は愛に根ざして真理を語る者とされて行くと言うことです。私達は、信仰の確信と経験を持つことにより、イエス様にしっかりとつながる者とされるのです。誤りに導かれることなく、揺らぐことなく信仰を守り、なお成長を続けるべきです。個人的な成長についてここでは言われているのではないでしょうか。

 私もまさにこのような成長をさせていただき誠に感謝するばかりです。今でこそ「我が道を行く」というかむしろ「主の道を行く」と言ったような私ですが、信仰をもつ前は、自分という者がまるでないような者でした。生きているにしても、その日その日がただなんとなく過ごせればそれで良いと思っていました。繋がるべきお方を見出していなかったからです。愛されていることを知らず、愛すべきお方がいることも知らなかったのです。

 しかし、それはキリストの愛によって変えられました。私が洗礼を受けたのは高校一年の時でしたが、時代が時代でしたから、まかり間違えば、キリスト教徒は似てもにつかないような宗教に入ってしまっていたかもしれません。

 現在はこうして、主に用いられる者とされ、こうしてご用ができますことも感謝です。

 3,補い合うことにより組み合わされる。(v16)

 3つ目に注目すべき事は、私達は補い合うことによって組み合わされていくと言うことです。私達が教会を作り上げていくときにはやはり神様との縦の関係はもちろんのこと、お互いの横の交わりが不可欠です。

 しかし、私達は弱く、欠けの多い者です。ですから、愛によって補い合い、一つとされていくことでしょう。

 真の一致を生み出すのは神様の業です。十字架によって私達は神様と、そしてお互いに一つとされました。去年の喬木教会におけるぼや騒ぎも教会にとっては十字架となったことでしょう。しかし、神様はそのようなことを通しても御業を行われます。イエス様の十字架の愛によって私達は聖なる者とされました。

 そしてイエス様は、欠けの多い私達を補ってくださいました。整っていない私達人間の間に立ち、隙間を埋めてくださり、私達は一つとなったのです。ちょうどそれは、砂利が入ったバケツの中に水を注ぐと、その隙間全てに水が染み渡るように、イエス様の十字架による愛が私達ひとりひとりを浸しています。

 私達人間の行う業では何かを作るにしても「組み合わせる」事はできても「一つとする」事はできません。いやむしろ、一つのものを壊す事の方が多いかもしれません。

 神様のなさる業は、私達人間を寸分違わず一つとしてお造りになったように、一つとする力を持っていらっしゃいます。そのようなお方になお従って行こうではありませんか。キリストの体である教会を一つになって建てあげてまいりましょう。そしてなお、十字架の愛を知り、信仰の成長をさせていただくものとされましょう。