喬木教会礼拝説教
2001年8月
19

イエス様のように

聖書箇所 ヨハネによる福音書14章1〜14節(P.196、7)

今朝、私たちに示されております御言葉は、イエスさまが十字架に架けられる直前、もうすぐご自身が弟子たちの前から姿を消そうとされていた時に語られたお言葉であります。弟子たちは、「自分の親兄弟を捨ててまで従ってきた指導者であるイエス様がいなくなる」、「仕事をもささげてイエス様についてきたのにイエス様に置いていかれる」、「イエス様は神の子であるのになぜ十字架の刑を受けなければならないのか」、いろいろな思いが湧きあがり、弟子たちは生きる根拠を失いそうになり非常に心を騒がせ動揺していたのです。イエスさまは、そんな弟子たちに、自分が十字架にかかるのは、天国にあなたがたの場所を備えるためだと言われました。それは、言い換えれば、罪で満ちた人間の世界と神の国をつなぐ架け橋になるためだということです。罪人である私たち人間と神さまの間には非常に深い溝があり、罪の世界から神の国へ行こうとしても人間の努力ではけっしていくことができないのです。いくら良い行いをしても罪は行いでは消えることがなく、罪あるままでは天国に入ることは出来ないのです。ではどうやって天国へ行くことが出来るのか、それは私たち罪人と天国の架け橋になってくださった、イエスさまの十字架の道を歩む時、イエスさまによる救いを信じて、神の国に行くことができるのです。もし、この時、イエスさまが、弟子たちに別れを告げず十字架の道を歩んでくださらなかったならば、未だに私たちは、罪の世界からぬけでることができずに、天国へいくことができなかったのです。イエスさまの十字架なしには私たちの罪を解決する方法がないなのです。イエスさまと共に生活した弟子たちでしたが、この十字架の意味が、結局、なんのことやら理解することができなかったのです。

@イエス様の十字架の道を自分のものにしましょう。

そこで、5節トマスがイエス様に質問しています。「主よどこへいかれるのか、わたしたちにはわかりません、どうしてその道を知ることができましょうか」と。すると、イエスさまは6節「わたしは道であり真理であり、生命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとにいくことができない」とお答えになりました。イエスさまが天国へ行く道であり、またイエスさまが昨日も今日も明日も永遠に変わることのない真理のお方である、そしてイエスさまが命、限りのある生命ではなく永久に続く命であるとおっしゃられたのです。ここではイエスさまが道であるということを少し見てみたいと思います。

例えば、知らない町へ行って「どこそこに行く道を教えて下さい」と案内を求める。すると聞かれた人はちょっとわかりにくいですが説明いたしましょう。「次ぎの四つ角を右に曲がって2つめの信号を左に曲がって道なりに100メートルほどすすんで白い建物を目印にして、そこを斜目に入って少し行くと目的地です。」尋ねた人は目的地につけるでしょうか。着くかもしれないし、迷うかもしれないのです。では、道を聞かれた人が口頭で説明するのではなく「ご一緒しましょう」とその目的地まで行って下さるならどうでしょう。決して迷うことはないでしょう。

「イエスさまは、私が道である」といわれました。イエスさまは、天国へ行く道は、ここにあって、こうして、ああしたらいいと単に助言、指示,忠告をされたのではなく、自ら道そのものになってくださり、私たちをしっかり天国へ導きつつ、共に歩んでくださるお方なのであります。ですから、イエスさまと共に人生を歩む時、100パーセント迷うことなく私たちは天国へ行くことができるのです、どんなに罪深くてもイエスさまと共に歩むなら罪赦されたものとされますから、必ず天国へと導かれるのです。

ここのところから、今日まず第一に覚えたいことは、信仰を頭だけで理解するのではなく、実際の生活の中で具体的に自分のものにする大切さです。救いに与かるためにはどうしたらいいか、あるいは天国へいける確信をもつにはどうしたらよいのかと頭で考えて答えを探して安心するのではなく、その見つけた道に具体的に一歩み踏み出すことが求められています。「私は道であり、真理であり、生命である」といわれるイエスさま、イエスさまは確かに十字架の道を歩まれたし、確かに永遠に変わることのない真理なお方だし、永遠の命を持っておられるお方なのだという所に留まるのではなく、イエスさまが歩まれた道をみずから歩き経験し、イエスさまが真理そのものであることを体験し、そして、イエスさまが与えて下さる永遠の命を自分の内に宿して生きていくこと、それぞれの生活の中でみ言葉を具体的に経験していくことが求められているのです。イエス様の歩まれた道を歩む時、いいことばかりではありません。イエスさまが負われたような、孤独、迫害、試練をも経験しなければなりません。しかし、イエスさまが私たちの中で生きて働いていてくださるのですから、苦しみや試練さえも、自分の十字架として乗り越えることが可能とされます。そして、最終的には天国にイエスさまを信じる私たちの住まいが用意されているのですから、私たちは苦しみや試練を避けるかのように、自分の生活の片隅にある時はイエスさまをお迎えするのではなく、自分の生活の真中にいつもイエスさまをお迎えして生活の中に起こってくる戦いに主と共に戦い勝利して行きましょう。イエスさまは十字架の後、復活され、死にも勝利されたお方なのですから。

 

Aイエス様が神であることを知りましょう。

次に8節フィリポがイエスさまに次のように願っています。「主よ、わたくしたちに御父をお示し下さい。そうすれば満足出来ます」と。するとイエスさまは言われます。「私を見たものは、父を見たのです」ここで、イエスさまはご自分が全く父なる神さまと一つであることを示されています。イエスさまが父なる神さまのうちにおられ、また父なる神さまがイエスさまの中におられるという事実を信仰の目でみるように私たちに勧めておられます。そのように信じることができないのであれば、イエス様が来られ、なさった力ある業によって信じるようにと言われたのである。イエスさまが語り成されたことはイエスさまご自身の意図からでもなく、力や知識からでもなく、神からのものであると主張されているからです。イエスさまの言葉は、人間に語りかけられた神の声であり、イエスさまの行為は、イエスさまを通って人間へ流れてくる神の力なのです。しばしば、キリスト教の神を説明する時に、三位一体の神という言葉を使いますが、それは父なる神、子なるイエス様、そして助け主なる聖霊様、この3つは別々の神ではなくこの三つで一つの神様であるというものです。このことからも、イエスさまは神さまであり聖霊様でもあると言うことが出来ます。

私たちがイエスさまに出会い、イエス様を信じているということは、神を信じ、聖霊を受けていることを意味します。ということは、イエスさまが父なる神さまによって、行動されたように、私たちもイエスさまを信じ、イエスさまに働きかけてくださっている神さまに導かれているのです。イエスさまを信じ受け入れたらそのときから自分の中にイエスさま、神さま、聖霊様がお住まいになっているのです。イエスさまが数々の力ある業をなされました。イエスさまの中におられる父なる神様の力によって。ではイエスさまを信じている私たちも力ある業を行うことが出来るのできるのでしょうか。できるのです。イエスさまを信じる私たちのうちに神さまの力によって導かれ聖霊様に励まされて、私たち一人一人も神さまの栄光を現すことの出来るすばらしい器とされているのです。イエスさまをお迎えしつつも、私はダメ、何の役にもたてない、とつぶやいているのであれば、自分の中に豊かに働きかけ、導いてくださっている神様の働きよりも自分の思いが強く出ているということになります。イエスさまに支配されずに自分に支配されているのです。イエスさまをお迎えした私たちのうちには、神さま、聖霊様も住んでおられ、神の栄光を現す器としてくださっているのです。力ある御声と導きに従順にしたがい、神の栄光を現す私たちとしていただきましょう。

Bもっと大きな業に参与させていただきましょう。

12節「はっきり言っておく。わたしを信じる者はわたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。」そのように書かれております。

弟子たちはイエスさまがいなくなると自分たちの人生がどうなるのか非常に心配していたと思われます。しかし、イエス様は、ご自分の死とともに弟子たちの人生までもが終りになるのではなく、福音宣教の働きを弟子たちに引き継ぎ、いよいよその業が拡大していくことを示し約束してくださっているのです。イエス様以上の業を私たちが行うことが出来るのか、そんなはずはないと私たちは思ってしまいます。しかし、イエス様が約束してくださったことは事実なのであります。イエスさまは、がリラヤ、ユダヤの地という世界善全体を見るならば、限られたパレスチナ地方でのみ伝道をされました。世界地図で見るならば、ほんの一部分だということがよくわかります。しかし、今現在、イエス様のこと、福音が述べ伝えられている地域はどれほどでしょうか。聖書も世界のベストセラーといわれ、何百カ語に翻訳され、多くの人々に読まれ、イエス様を信じる人々がたくさん起されてきました。世界へと広がる福音、ユダヤ人から異邦人へと広がる伝道、それはまさに、もっと大きな業がなされている事実であります。福音のあまねく述べ伝えること、それが弟子たち、また私たちにイエス様から託された使命であり、また主が私たちを通してそのように成してくださるという約束でもあるのです。イエス様は「もっと大きな業を行いなさい」とはいわれませんでした。「もっと大きな業を行うようになる」と断言し約束してくださったのです。主が私たち信じる者のうちに働いてそのことを成就して下さるのです。福音はみ言葉どおり大きな業となってこの日本にも伝えられています。そして、わたしたちのところまでイエス様の救いが告げられているのです。パレスチナで始まったことが次第に広がり、日本そして私たちのところまで伝えられていることを思う時、何人の口を通してえどれほどの迫害や苦しみの中イエスさまを信じる人々が主によって力与えられ、用いられ福音を伝えてくださったのかと思うと喜びと感動を覚えます。本当に主のみ業に感謝するばかりです。私たちは、感謝と同時に、さらに神様の業はまだまだ進められていることを忘れてはいけません。私たち一人一人を通しても、その神様の業は広がって、推し進められていくのです。知人に証することによって、またチラシを配ることによって、祈ることによって、感謝して生きることによって、いろいろなことを通して神の業が次第に広がっていくのです。「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神である」(フィリピ213)とあるように、主が私たちの内に働きかけてくださって、神の業を推し進めようとされていることを確信して、この私をも神の栄光のために用いてくださいと祈りつつ行動していきましょう。

 

ヨハネ141-143つのオススメ

@イエスさまは天国へ至る道です。その道を見つけただけではなく、実際にその道を歩みましょう。

A三位一体の神は、私たちを神の栄光を現す器として用いようとしておられる。自分の内に三位一体の神様が豊かに働いてくださっていることを感じ、私たち一人一人が神の栄光を現す器であることを受け止めましょう。

B現在も進められている「もっと大きな業」、のために、まだ福音に触れたことのない人々を覚え
て、与えられているそれぞれの賜物をささげて伝道していきましょう。