喬木教会礼拝説教
2001年9月2日

主に覚えられる

聖書箇所 ルカによる福音書 13章22〜30節(P.

序 文

先週は、榊原寛先生をお招きして、とても幸いな時を持てましたことを心から感謝しております。この場に、皆さんがそれぞれの関係者を招いてくださったことにも感謝をしております。

それにしても、素晴らしい講師の翌週にこのようにして講談に立たなければならない、ということは本当につらいですね。自分の惨めさをより一層強く感じてしまします。

先週は独り子を私たちのために与えて下さるほどの神さまの愛が非常に鮮明に語られ、感動と涙をもって聞いていました。そして今週は天国についてです。イエスさまが一歩一歩十字架に近づき、その緊迫された空気の中で語られた天国についての話なのです。そのせいか、少し厳しい内容が語られています。

 

質問した人の環境

今日の最初の質問。「天国に入る人は少ないのですか?」。

質問した人はユダヤ人であったであろうと言われております。ユダヤ人といえば、自分や親族は生まれた時から救われるようになっている、と考えております。そのゆえに、異邦人は救われない、と思っているのです。キリスト教国においては生まれた時から洗礼を受け、イエスさまを知らなくても「自分はクリスチャン」と思っているケースとあまり変わらないでしょう。

 

質問に対する答え

数量的な質問に対し、イエスさまの答えはちょっと変(?)な回答をしました。「狭い戸口から入るように努めなさい(24)

「自分は大丈夫」と思って安心しきっている者に対してイエスさまは、「狭い戸口から入りなさい」と言われたのです。狭い戸口とは何でしょう?余裕を持てる所ではありません。心地よい場でもありません。みんなから好かれている所でもありません。それはませにクリスチャンの生活を現しているように思われます。

 

狭い戸口の歩み

私たちの信仰生活は、イエスさまを信じて救いを受けた、という時点で終るものではなく、イエスさまを受け入れたその場が出発点になるのです。そして歩み始めたその道のりは決して平坦な楽な道ではありません。罪の中にどっぷり浸かっていた私たちに対して、神さまが独り子を贖いとして与えて下さった、その神さまに喜ばれる歩みですから、それは自分の欲を満足させる生活ではないということになります。

 

気をつけること

数ヶ月前に「チーズはどこへ消えた」という本が出版されました。やっとつかんだ成功から先に進めなくなる小人と、変化を受け入れ、次の段階に進むねずみの話でした。

私たちも、一度素晴らしい経験をしてしまうと、いつまでもそれを味わっていたい、と思うのが私たち人間の心情です。でも、いつまでもそのことだけを大切にしているのであれば、気付かぬうちに私たちは戸口を広げてしまい、「あの人はどうだ、この人はああだ」と気が他人に移ってしまいます。救いの戸は狭いのです。イエスさまは他人のことはどうでもよい。あなたは今の現状から抜け出し、救いの道を全っとうしなさい、と言われているのです。

 

救いの扉

そしてイエスさまは続けて言われております。「家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、(25)。誰もその中には入れないのです。

ノアの箱舟

旧約聖書の中に、「ノアの箱舟」と呼ばれる話があります。地上の民は飲み食いし、誰もが快楽の中に溺れていたのです。みんな好き勝手なことを語っては、自由気ままに振舞います。それは、広い戸口に立っていたことを意味します。

そんな中、ノアだけは神さまを見上げて歩んでいました。そのノアだけが、神さまから好意を得た,とあります。そして神さまはついに民を滅ぼす決意をノアに告げました。そして大きな舟を造りなさい、と言われるのです。

ノアは、箱舟を作り始めます。学校の校庭ほどある大きさの舟です。ノア一人が啓示を受けたからといって、一人で作れるでしょうか?作れないでしょう。多くの人の手を借りたと思いますよ。

世界中の動物がその箱舟にやってきます。世界の片隅でこっそり起こった出来事でしょうか?そんなことないですね。世界中が注目したでしょう。

啓示を受けたノアは、もう直ぐ世界が滅びることを黙って一人だけ助かろうとしていたでしょうか?全ての人が死に直面しているのに、自分だけ大丈夫だぁ、なんて安心していられる人はいないですよね。おそらく多くの人に伝道したでしょう。

では、ノアの言葉を聞いた人々の反応はどんなものだったでしょう?おそらく、「あの人は狂っている」とか、「関わらない方が良い」とか言って、今の自分の生活を楽しむことを選びました。そして箱舟が出来ました。もう直ぐ雨が降り出します。さぁ、時が迫っております。箱舟の中はノアとその家族、そして世界中から来た動物が入っております。そして舟の入口は?

創世記7章16節「神が命じられた通りに、すべて肉なるものの雄と雌とが来た。主は、ノアの後ろで戸を閉ざされた」のです。

その後、洪水になり、人々は泳ぎながらノアの箱舟に来たでしょう。ノアは一人でも救いたいと思ったでしょう。でも、戸は開かないのです。なぜですか?主が閉められたからです。主が閉められた扉は、もう開くことが出来ないのです。

開かれている扉

非常に残酷に聞こえる話です。でも、その前の部分も重要です。私たちの前に、戸は開かれていたのです。狭い戸口は、私たちの前に開かれていて、そこを通れば、すぐに天の国という家に入ることが出来るのです。

それがいつ閉められるのかはわかりません。主は全ての人が救われるまで、大きな忍耐を持って待っておられます。しかしそれにもタイムリミットがあるのです。

戸が開いている内に、今までの生活を捨てても惜しくない、と思えるような世界、神の国に私たちは入りましょう。

 

閉め出された人のその後

だから閉められても諦めきれませんね。「神さま!!開けて下さい!!私ですよ。もうちょっとで入るところでした。もう一度あけて下さい!!」って必死になると思います。でも中からの声はどんなだと書いてありますか?「おまえたちがどこの者か知らない」と言われるのです。さらに、知らないだけならまだ良いのですが、不義を働く者である、ということだけは知られているようです。「不義を行う者ども、皆私から立ち去れ」とまで言われてしまうというのです。

それはないでしょう。だって、それまではイエスさまと一緒に食事をしたり、教えを受けたりしているのですから(26)

 

私たちが属する所

私たちは伝道をする時、または議論をする時、その他何でも良いのですが何かをする時、何を意識して行うでしょうか?伝道で言えばどうでしょう?「福音を伝えなければ、あの人が滅びてしまう」確かにそうです。「私の議論が正しいのだから、納得してもらうまで説明しよう」確かにそうかも知れない。「今これをしなければならないから、会社のため、家族のため、この仕事に打ち込もう」素晴らしいことです。

でも、実はそれだけでは完全ではないのです。確かに私たちはそれらのものに属さなければこの世での生活はなりたちません。それだけでは神さまに覚えてはもらえないのです。いや、正確には私たち人間は全ての人が神さまの子どもですから覚えられてはいるのですが、それだけでは受け入れてもらえないのです。

神に属する

私たちは神さまの子ですから、神さまに属していなければならないのです。ですから、すべてのことを行う時には、伝道や奉仕、議論を通してでも、「主のために行う」という意識が必要なのです。いや、自然にそう思えるようになるべきなのです。その時に初めて私たちは神に属している者とされるのです。

 

主に覚えられる特権

そして面白いことに、戸が主人によって閉められた時、悔しがっている人がいる訳ですが、その人を尻目に、(29)東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く」人たちがいるようなのです。そう言われてみれば、家の戸を全て締め切って、怯えていたイエスさまの弟子たちの中心に、イエスさまは急に現れました。

イエスさまを信じるということは、罪が赦され、神さまに覚えられるということなのです。そして神さまに覚えられるということが、たとえ戸口が閉められていても、その中に入れていただける、という特権を与ることなのであります。

 

最後に

主は私たちを決して忘れるお方ではありません。でも、私たちが何処に属するかで、私たちの側で主のもとから去るか、または留まるのかを決めるのです。主に属する時、私たちは「神の国の宴会の座」に入ることが許されるのです。この素晴らしい特権を、私たちがイエスさまを信じ、従う時に得られるのですから、いただこうではありませんか。

十字架の道ですから、決して楽な道ではないかも知れません。しかし、その道を歩む時、私たちは神さまより豊かに覚えられ、将来の希望を見上げながら、喜びと共に歩めるのです。

神さまが開いていてくださるその扉を目指して、従う者とさせていただきましょう。