喬木教会礼拝説教
2001年9月16日

主の嘆き

聖書箇所 ルカによる福音書 13章31〜35節(P.136

 

アメリカにおいて、非常に痛ましい事件が発生しました。飛行機をハイジャックし、そしてビルに突っ込む。このことのために、一体何人の人々がその尊い命を失ったことか。この事件にあたり、アラビヤ諸国の人々の反応はどうかというと、大人から子どもにいたるまで、「アラーの神は偉大なり」と叫び、喜んでいる、というのです。教養のある方々でさえ、犠牲者には気の毒だが、アメリカは当然の報いを受けた、というのです。

このことに対して、これからアメリカがどのような対応をするのか、私たち世界中が危機感を覚えながら注目せざるを得なくなりました。もしアメリカが武力を持って報復活動に出るのであれば、ガイドライン法が成立してしまった日本は、アメリカ軍のパシリのように働かなければならなくなります。また、アメリカ大統領が中国やロシヤとの話しをした時に、このテロ行為は決して許されるものではないので、協力をするような約束をしているため、アメリカ一国の戦争ではなくなる可能性も高くなるわけです。

歴史的には、不景気になると戦争が勃発し、その戦争によって景気を回復する、という一面があります。日本を始め、アメリカにおいても景気が良くない傾向にあっただけに、非常に危険な空気を感じるわけであります。

これでももし、戦争になろうものなら、喜ぶのはテロを起こした人々、そして一部の景気を回復する会社、戦争によって利益を得るほんの一握りの人々だけであります。逆に、今回の事件も含めて、戦争によって悲しむ人の数ははかりしれません。命を失う人も非常に多くなります。私たちにしても、他人事、対岸の火事では済まなくなってくるのです。そして何よりも、愛する子ども達が殺し合い、破壊し合う姿を見て一番悲しむのは、私たちの父である神さまご自身でありましょう。

そう思い、歴史を見てみますと、神さまは何度も何度も悲しみを覚え、苦しみながらこの数千年という年月を歩まれているようにも思います。今日お読みいたしました聖書箇所もその中の一つの嘆き、悲しみを表した部分でもあるのです。

今朝の聖書箇所の中でイエスさまが嘆いておられるわけですが、まず、ファリサイ派の人々との会話があります。そしてご自分の歩まれる道について。最後にエルサレムの終末について、という内容であります。

イエスさまが嘆かれた理由は一貫して一つの理由によりますが、その理由は私たち人間の罪であります。その罪も犯罪という罪ではなく、的外れ、筋からずれてしまっている私たち人間に対しての悲しみであります。

まず最初にファリサイ派の人々がイエスさまのもとに来て告げます。(31)「ヘロデがあなたを殺そうとしているので、ここを立ち去った方が良いですよ」と。その言葉に対してイエスさまは、(32)「行って、あのキツネに告げなさい」と、挑戦的な言葉を発するのです。この時代、この地域において「狐」という言葉が意味することは、一番狡猾な動物と思われていたので、ずる賢く、また作物等を荒らすので、有害な存在で、それらのことから役に立たない人間の象徴という意味で用いられていました。今のアメリカでいう「ドンキー」と同じかも知れません。

ヘロデは一つの領地を任された王様であります。そして一応法律はあっても、王の気分によって人の命は左右されるところがありました。ですから、領主に向かって狐呼ばわりすることは、自分の命が危険にさらされることを意味するのです。

こう語ったイエスさまにとって、領主ヘロデは恐れるべき存在ではなかったのです。しかし、ファリサイ派の人々にとっては、恐ろしい存在でもあったのです。律法を知り、ユダヤ人を治めるために政治的なアドバイザーとして立てられたファリサイ派ですから、イエスさまをどう扱うかについても領主に意見することが出来たでしょうが、意見しませんでした。なぜでしょう。領主を恐れていたのです。イエスさまの前に、バプテスマのヨハネが登場しました。そしてヘロデが自分の兄弟の妻を自分の妻にした、という罪を指摘し、そのことのゆえに処刑されてしまいました。そしてイエスさまの登場。領主ヘロデは、殺した人間が生き返って来て、また自分の罪が白昼にさらされるのではないか、という恐れをいだいていたのです。ですから、イエスさまのような清い存在は何とかして始末したい、というのが強烈な思いであったでしょう。そのヘロデに、いくら意見が出来る立場にあったとしても下手に口出しが出来ないのがファリサイ派の人々だったのです。

その人々に向かってイエスさまは、「あの狐にこう言え」ということを言ってのけるのです。このことによってイエスさまは私たちにメッセージを告げています。

1.それは、本当に恐れるべきお方を恐れるようにしなさい、ということです。この世の支配者は、私たちの体を殺すことが出来ても魂までは殺すことが出来ません。だから恐れるべき方を恐れるようにイエスさまは言っておりました。そのことを実践して見せているのです。

実際にこの世の力ある人に抵抗する、ということはとても難しいことであり、勇気がいることです。また、下手に逆らえば、ただ混乱を招くだけであります。無理に争いごとを生み出す必要は私たちにはありません。しかし、反抗するべき時には反抗する。言うべきときには言うことが出来るようでなくてはならない。そのためには、日々、本当に恐れるべき方の存在を私たちは認め、そしてその方の御旨に従っている必要があるのであります。

2.自分の使命に生きることの強さを教えて下さっております。イエスさまは続いてご自分の使命を確認し、そのことをヘロデに告げるように語っております。「今日も明日も、悪霊を追い出し、病気を癒し、三日目に全てを終える」(32)。「二日の後、主は我々を生かし、三日目に立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる」(Hos6:2)。旧約の時代に預言されていた言葉を成就するために来られたイエスさまは明確に、ご自分の使命を知っておられた。そのことのゆえに、この世の支配者に恐れを覚えることがなく、ご自分が神さまから示された道を歩み続けることが可能とされているのであります。

3.使命に生きることの充実感を教えております。イエスさまは、(33)「預言者がエルサレム意外の場で死ぬことはない」と言っております。それは、ヘロデがいかに私を殺そうとしていても、エルサレム以外の場で私を殺すことが出来ないのだ。と言っているのですが、逆を言えば、エルサレムにおいてであれば、イエスさまを殺すことが出来る、と言っているのです。そしてまた、イエスさまご自身も、自分がエルサレムで死ぬのだ、ということを言っております。

自分が何処で、どのように死ぬのか、その苦しみを知っていれば私たちは喜べるでしょうか?普通は喜べないと思います。だから、この言葉もちょっと憤りを覚えながら語っているかのような印象を受けるのですが、でも決して投げやりな言葉でない。私たちであれば、「どうせ私はエルサレムで、多くの人から罵られながら死ぬんだよ!!」と言っていそうなのですが、そう考えるとイエスさまは穏やかです。

なぜならそこには、神さまのご計画に従い、神さまから与えられた使命に生きる時に得られる充実感を覚えているからであります。この充実感は、私たちの理屈では説明出来ないのです。たとえ自分がやりたくない、と思ったことでも神さまからするように示され、行う時に与えられる充実感であります。

これらのことを告げたイエスさまは、急に彼らを通り越して、エルサレムの思いが集中します。そしてエルサレムのために嘆きました。(34~)「エルサレム、エルサレム

ここにはイエスさまのエルサレムに対する愛の大きさ、そして私たちに対する愛の大きさが示されているのです。

そのエルサレムが神さまに対してしてきたことは何でしょうか?預言者たちを殺し、自分に遣わされた者を石で打ち殺したといいます。そのようなエルサレムに普通でしたら一体どのような思いを抱くでしょう。今回のアメリカと変わらないと思うのです。いきなりの宣戦布告とも取れる行為。この行為を許せばテロは益々いいきなり、あらゆるテロ活動をするかも知れないのです。ですから軍事的な報復も当然といえば当然なのであります。

では神さまはそのような仕打ちを受けた人々に対してどうされたかというと、このエルサレムのために嘆きました。そして何度も何度も彼らを集めようとした、というのです。しかし、その度になお裏切られ、傷付き、苦しめられているのです。

私たちは何度、イエスさまのために自分を捧げることを求められ、断ったでしょう。イエスさまの求めを無視したでしょう。それでもイエスさまは私たちのことを本当に愛しく思い、私たちを招きつづけてくださっているのです。イエスさまの十字架は、両手を広げております。イエスさまは、私たちが帰ってくるのを、両手を広げて待ち続けて下さっているのです。

最後に、イエスさまは素晴らしい約束をしてくださいました。(35)「お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決して私を見ることがない」です。この約束は、私たちがイエスさまにお会いすることができる、という約束でもあるのです。

私たちが生まれながらの姿でいるのであれば、決してイエスさまを見ることできません。そしてイエスさまを見なければ、本当の神さまを見ることが出来ないのです。ところが、もし『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るのであれば、私たちは本来見ることも知ることも出来なかった神さまを見、神さまと交わることが出来るようになる、ということが言われているのです。

では、どうしたら『主の』という告白が出来るようになるのでしょうか。私たちが自分の罪を認め、悔改めをする時であります。本当に神さまの力を認め、自分の罪を深く悔改める時、私たちは初めて、何度裏切られ、傷付けられても変わらず私たちを愛し続けて下さった神さまの愛を知ることが出来るのです。

そうしたら、神さまの御名を祝福せずにはおれないではないですか。本当に素晴らしいことです。

私たちは絶えず、神さまに愛されていることを自覚しながら、与えられた使命に忠実に従って、この世の支配者に惑わされることなく、イエスさまと共に歩み続ける者とささていただきましょう。