喬木教会礼拝説教
2001年9月23日

解放された者

聖書箇所 ルカによる福音書 14章1〜6節(P.136

 

私は時おり、政治家を見る時に、尊敬の眼差しを持って見ることがあります。彼らは自分の主義や主張をしっかりと持っていて、それに対する反対意見とはしっかりと戦うことが出来るからです。

私のような気の弱い者は、自分の揚げ足を取ろうとする人々が周りを囲んでいたら、下手な行動はとれないですから、萎縮してしまい、本来の働きも大したことないのに、その働きが半分以下になってしまうでしょう。

今朝、イエスさまはファリサイ人の家の食卓についております。ファリサイ派の人々は、イエスさまの揚げ足を取っては、自分たちの優位性を示したいと願っている人々です。ですから、彼らを前にしたら、私でしたら、もう何も出来ない、何も言えないことになります。「なんの問題も起こらないで欲しい」と願いながらの食事になったでしょう。ところが、イエスさまはそんなことなかった。堂々としておりました。そして、その食卓の場で問題も起こりました。一人の病人が自分の所に来るのです。水腫を患った方です。

■すいしゅ 水腫 人体内の液状成分(組織液ないしリンパ液)が,からだの組織内あるいは体腔内に異常に多量にたまった状態を言う.むくみ,水症,浮腫とも言われる.全身性のものとしては,心臓病によるもの,腎臓病によるもの,栄養障害(脚気,癌の末期,栄養失調症など)によるものがある.

      旧約聖書では,神からのろわれた結果と見なされているが(民5:21‐22,詩109:18),主イエスは安息日に食事の席で水腫の人をいやされた(ルカ14:2‐4).

 

その日は安息日であったというのですが、この方をイエスさまは癒したのです。このことを通して、イエスさまは私たちに何を教えようとされているのでしょうか。

1.        人の作ったものに固執せず、喜ばれる捧げものをしよう

この世にあって、神さまの前にある敬虔さ、と言う言葉は誤解を招いたり、勘違いされたりしてしまうものです。この世的には「敬い、慎む様子」であれば敬虔であるのですが、イスラエルや、私たちクリスチャンにおける敬虔は、神さまの前に、謙遜にへりくだることではありませんか。

しかし、ファリサイ派を始め、律法学者は、自分たち(正確にはその先祖)が作った律法を忠実に行うことにより、敬虔さを得ようとしていたのです。そのため、神さまが与えて下さった一番大事な律法がないがしろにされているのです。彼らは愛を放っておいて、水腫を患う可哀想な人を利用して、イエスさまを訴えようとしているのです。

そもそも、安息日だから、どのような仕事もをしてはならない、はずなのに、どうして彼らは食事の席にイエスさまを招けるのでしょうか?彼らの姿こそ、自分の目の中にある丸太を放っておいて、他人のチリを気にしている姿ですよね。

神さまが最も喜ばれる捧げものは、悔いた砕けた魂です。一生懸命祈ることや、聖書を読むこと、そして奉仕をすることに集中し、それをすることによって救いの確信を得ようとしたり、また出来ない自分を「弱い」とか、「ダメ」とか、「何も出来ない」と言って裁く必要はないのです。

人が作った表面的な戒めは、私たちを否定的にします。ファリサイ派の人々は、外面的なことに気を取られていましたから、その考えは否定的であり、建設的なことがまるでありませんでした。神さまが示して下さっている道は、肯定的で、建設的な道です。何ができなくったって良いではないですか。私たちは神さまから愛された存在です。

外面的な敬虔さに捕らわれることなく、私たちの全てを愛し、包み込んで下さる神さまの中で、恵みに満たされるようにしましょう。

2.        本当の律法に目を向けよう

人の作った戒めから解放され、神さまの愛の内に安らぐことが出来たら、神さまと交わる時間がとても充実します。その充実さは、聖書の読み方に現れてきます。

ファリサイ派の聖書の読み方は、自分(他人も含め)が律法を犯しているかいないかを判断するための読み方でした。だから、聖書を開く時に喜びはありません。罪ばかりが目にとまるのです。恐ろしいですね。

イエスさまはどうでしょう?彼らに聞きました。(3)「安息日に病気を治すことは律法で赦されているか、いないか

イエスさまの聖書の読み方は、神さまの御旨を知る読み方です。そして神さまの御旨とはどんなものでしょう。私たちに律法を与えられるお方ですから、私たちを束縛しようとするお方でしょうか?違いますね。私たちを本当の自由へと導こうとされています。私たちを解放するために、律法を与えて下さったお方です。だから、聖書が怖い、つらい書物であるはずがないのです。

イエスさまはその神さまと、生きた交わりを持ち、聖書に喜びを感じていました。ですから、イエスさまは「癒しは神さまが喜ばれるか、悲しまれるのか」と、書いてあることではなく、神さまがどう思われるかを聞いたのです。

この質問は、ファリサイ人の目を本当の律法に目を向けさるものでありました。外見ばかり取り繕っているため、本当に重要にしなければならないことをないがしろにしている、ということです。ですから、イエスさまの質問を受けて、彼らは答えることが出来なかったのです。(ここで彼らが悔改めれば良かったですね)

神さまは聖書を通して、私たちの間違った姿に気付かせてくださり、そして本当の命を得させようとしてくださっているのです。その書物を、人を裁いたり、殺したり、縛ったりする道具にはするべきではありませんね。逆に、神さまが与えて下さった律法は、本当の慰めになり、喜びになり、力になる書物として、聖書を通して神さまとの関係を築いていきましょう。

3.        引き上げられたことを覚えよう

最後に5節を見てみましょう。「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。」と言われております。

たとえ安息日という、働きを限定された状況の中にあっても、愛する息子や自分の大事な家畜を助けるためなら時を待たずして助ける、というのです。

神さまは天地創造の時に、7日目に休まれた、というので安息日を定めてくださいましたが、だからと言って本当に神さまが休んで働いて下さらなかったら、私たちの世界はどうなっているでしょうか?一週間の内、6日は希望も持てる日が続きますが、1日はサタンが自由に働いて、何の希望も持てない日を過ごさなければならなくなってしまいます。神さまは休まれていても、働いておられるのです。

その究極の働きが金曜日に私たちの罪を負って十字架につき、3日目に復活されたという出来事ですよ。復活された日がユダヤ教では安息日の翌日ですが、私たちにとっての安息日ですよ。この時に、最大の働きをされたのです。このお陰で、私たちは罪が赦されたという確信と、永遠の命への希望を持つことが出来るようになったのです。

これはどういうことですか?それは、私たちが罪という穴の中に落ちていて、そのまま放って置かれたら死んでしまう、という状況の中で、イエスさまが十字架というはしごを下ろしてくださり、そのお陰で私たちは命を得た、ということです。その助ける行為は、安息日に支配されるものではないのです。

このように罪から救われ、私たちに自由をもたらす聖書を与えられ、人を否定的なところに突き落とすあらゆるものから解放されたのが私たちですから、以前の古い生活とは決別し、神さまに喜ばれる道を、私たちも喜びながら歩みつづけて行きましょう。