喬木教会礼拝説教
2001年9月30日
イエスさまの友
聖書箇所 ルカによる福音書 14章7〜14節(P.136,7)
イエスさまの友であることの素晴らしさを経験されているでしょうか?
今も生きておられるイエスさまと本当の友達になることは、私たち自身の本当の幸せへの第一歩です。イエスさまの友として、イエスさまが何を私たちに語られているのか、聖書を通して聞いてまいりましょう。
14:7 イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。8「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、9あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。
Point 1 「恥」から解放されよう(9)
アメリカにいる頃、質問されました。「男と女、英語の上達はどちらが早いでしょう?」
答えはわかりませんでしたが、答えを聞いて納得するものがありました。一般的には女性の方が上達は早いそうです。理由は、男の方が恥を意識するからだと言うのです。女は恥よりも英語の上達を意識するので、間違った英語でもどんどん話す。そのため上達が早い、というのです。
私たち日本人は、意外と「恥」に対しては敏感ではないでしょうか。
ファリサイ派の人々は、しばしば宴会を設けては人々を招きました。
そこでイエスさまが見て気付いたことがありました。人々は一生懸命上席につこうとしているのです。
それで言いました。「上席について末席に移されたら、恥をかきますよ」(9)って。
特に恥に敏感な私たちが、教会で恥をかかせられたら、もう教会には行きたくなくなってしまうでしょう。たとえ、そこに永遠の命があり、本当の喜びがあっても行きたくなります。恥はかきたくないのです。
でも、考えて見るとどうでしょう。私たちは神さまの前には大きな恥をかきっぱなしではありませんか?神さまは私たちの隠れた行いまで知っておられるのですよ。私たちがまだ誰にも言っていない、本当に恥ずかしいと思っていることまで知っているのです。
私たちは神さまの前に恥ずかしい思いをしても平気なのです。なぜなら、神さまの前で恥をかき、悲しい思いをしても、それは「取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ」(2コリント7:10)るからです。逆に、人々から受けた恥からくる悲しみは「死をもたらします」(同)。
神さまの前に恥ずかしくて、本当は立つことも出来ないはずの存在が私たちでしょう。ところが、私たちは神さまの前にたち、こともあろうか神さまから永遠の命をいただき、神さまの子どもにしていただいているのです。
神さまの前にあって、私たちは自分の面子、プライド、そういった恥を覚えさせる思いから解放されようではありませんか。
14:10招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。11だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
Point 2 主の栄光を現す器となろう
恥から解放されていなければ、「失敗していない、恥をかいていない自分」を見てもらおうとします。ですから、「自分が」という思いが強く現れます。ところが、主の前に恥をかくことの素晴らしさを知っている人は、自分の恥が主の栄光を表すことを知っています。ですから、「自分はこんなにヘマばかりしているけど、でも主は素晴らしいんだ」ということを現します。そして人々も、「この人を用いておられる主は素晴らしい!!」と思うのです。
イエスさまは私たちに「末席につけ」とお命じになりました。確かにその方が事実上、謙遜に見えるし、その後で上席に導かれれば気分も良いでしょう。でも、そんな見掛け倒しのことをイエスさまが言われたのではありません。11節を見ると、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」とあります。これはあくまでも天の国においてのことであります。
イエスさまが公の場に登場する少し前に、「バプテスマのヨハネ」という人がいました。彼はらくだの毛皮を着て、野蜜とかいなごを食べていて、決して裕福な暮らしをしていたわけではなく、最後には首をはねられた死んだ人物です。彼の生き方をみて、利口な人は、「あいつは馬鹿だ」「要領が悪すぎる」「もうちょっと利口に生きた方が、神さまの働きを出来たのに」などと言うでしょう。
ところが、イエスさまが言われたことは「言っておくが、およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない」(ルカ7:28)でした。でも、その彼でも天の国では最も小さい者よりも小さい、と言うのです。
この地上では利口ではなく、不器用と思われる生き方をとおして、神さまは、本当に大きな栄光を現して下さるのです。この地上においては、本当に取るに足りない者でした。でも、主の前に謙遜にへりくだり、神さまが求められることを行う人生は、神さまの栄光を豊かに現し、そして現代にいたるまで、神さまの恵みのしるしとして生かされているのです。
主の前にへりくだり、自分を末席の場に置いて見ましょう。
14:12また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。13宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。14そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」
Point 3 恵みの報いを受けよう
最後にイエスさまは、宴会を催した人に向かって語られました。
宴会に呼ぶには、見返りを期待できる人は招く必要はない。逆に見返りを期待できない人を招きなさい、ということでありました。なぜでしょう?正しい人が復活する時に、その報いに与かるためであると言っております。
イエスさまが私たちを罪を負い、十字架にかかって下さったことを知り、それを信じる時、私たちは永遠の命を受けます。ですから、復活の時に、私たちは命を得る訳ですが、そこにどのような報いがあるのでしょか?
それは、本当の親友との顔を合わせての再会であると思います。
永遠の命だけは頂いたけど、下さった方が本当はどんな方であるのか、知っていますか?命を下さった方の性格がどんなものであるのか、知っていますか?わからないのであれば、私たちはその方とどのようにして交わるのでしょう?お祈りさえもひとり言になってしまはないでしょうか。
神さまは、「貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人」を神の国に招きました。それは、世の中で軽んじられている人々であります。その様な人々がいるだけで、その群の質は下がってしまう、と考えられてしまう人々です。
ところがイエスさまは言うのです。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25:40)と。とうことは、この世で蔑まされている人々の中にこそ、イエスさまがおられるのです。
ならば、その人々と交わりをすればするほど、私たちはイエスさまを知ることが出来る、ということではないでしょうか。そしてイエスさまとの交わりが深まる、ということなのです。
せっかくイエスさまが、私たちを友と呼んで下さる(ヨハネ15:15)のです。私たちは友であるイエスさまがどのようなお方であるのか、もっと深く知りたいではありませんか。
そしてイエスさまと親しくなればなるほど、復活の時、イエスさまと顔を合わせた時の喜びはいかほどでしょうか。せっかくイエスさまと友達になったのに、復活の日に「初めまして」なんて挨拶をしていたら、その喜びは半分以下になってしまうでしょう。
私たちは大親友であるイエスさまに会える、という喜びの報いを約束されているのです。恵みの報いをいただけるよう、日々イエスさまとの交わりを深めて参りましょう。
私たちが恥を捨て、神さまの栄光を現す器とさせていただくのであれば、後はイエスさまとの友情関係を深めていくばかりです。そして本当の友なるイエスさまと再会できる天上の幸せを、私たちは約束としていただいているのです。
この感謝を忘れずに、イエスさまの友として、週の歩みを進めてまいりましょう。