喬木教会礼拝説教
2001年10月7日

神の国の食卓につく

聖書箇所 ルカによる福音書 14章15〜24節(P.137

内容:

イエスさまのお話。神の国の食卓について。

  神の国が宴会の席においてたとえられている。招待客には招待状を前もって渡しており、用意が整ったので、人を呼びに行った。ところが、招いておいた人は皆断わった。招待した主人(神さま)は怒って、招待していなかった人々を招いて宴会の席を満たした。

 

ポイント:

(16)『神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう』

ユダヤ人の持っていた思想の一つに、神(メシア)到来する黄金時代には「メシアの祝宴」がある、と言われていた。その祝宴には私たちを罪の恐ろしさで縛る「海の怪物レビヤタン」もご馳走の一部として出される、と考えられていた。

ここで叫んだユダヤ人の男は、自分に与えられた(と思っている)特権に酔いしれている。神に選ばれた民だけが入れる神の国、そしてその食卓。異邦人や罪人は与かることのできない、その光景を思い描いている。

その人の言葉で、イエスさまのたとえ話が始まる。

 

(17)『宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に「おいでください」と言わせた』

パレスチナでは、宴会が催される時には、その日付が相当以前から知らされていた。そして時刻においては、当日用意が整い次第、僕たちが招いておいた人を呼びに行く。当日になって断ることは、とても非常識なこと。

 

(18)「すると皆、次々に断った」

招かれていた人はユダヤ人であり、招いたご主人が神さまであった。神さまに招かれたユダヤ人はメシア到来の日があることを知り、その日を待ち望んでいた。しかし、実際に招かれた時、彼らは様々な理由をつけて断り始めた。

 

(18)『畑を買ったので、見に行かねばなりません』

自分の仕事を最優先している人。神の国、という将来的な希望は嬉しいが、現実問題、自分には与えられた仕事があり、世の中を生きていくにはそっちもおろそかには出来ない。まず、自分の責任を果たさないと。というあたかも正論のような言葉を並べては、神の国とその義を二次的なものにする。

 

(19)『牛を2頭ずつ5組買ったので、それを調べに行くところです』

何か突発的なことが起きた場合、それらが神の国よりも優先されるべきだと考える人。いつも忠実に神さまに仕えていたので、突然しなければならなくなったことが起きた時くらいは、そちらを優先しても良いだろうと考える。本来洗礼は、古き自分が死んだことを現したもの。だから全てを神さま中心しているはずだが、自分に死に切れていない時、「たまには良いだろう」という甘い考えに負けてしまう。時にそれが命取りになる。

 

(20)『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』

日本では通用しないような言葉だが、聖書の申命記24章5節には「人が新妻をめとったならば、兵役に服さず、いかなる公務も課せられず、一年間は自分の家のためにすべてを免除される。彼は、めとった妻を喜ばせねばならない」と記されている。妻を迎えたことで、宴会を断った彼は、聖書に精通しており、自分は正しいことを行っている、という確信があったであろうが、正しい導きに対して目がふさがれていた。

 

(21)『貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい』

ここで言われる人々は、山上の垂訓で言われる人々のことであろう。その人々は神の国に招かれるための功績も持たず、自信もない。しかし、その心は神に対して飢え乾いており、心が束縛され、真理に対して目が閉ざされ、神の御心を行うことが出来ずに、苦しんでいる人々である。それらの人々は、聖書では収税人、遊女、罪人、異邦人等と呼ばれているが、その中で神さまを呼び求めることが必要である。

 

(23)『無理にでも人々を連れてきて、この家をいっぱいにしてくれ』

「無理にでも」という言葉から、歴史においてはしばしば間違いが犯されてきた。聖書で言われる無理強いは、「互いに愛し合う」こと以外には言われていない。主人である神さまは、全ての人が神の国に来て、食卓を囲んで欲しいと願っておられる。そしてそのことを成就するためには、「愛」を全っとうするしかなく、御子を十字架につけた。御子の十字架の贖いにおいて、私たちは天国へ入れる道を得たのである。そこには神さまの本当に無理を極限まで犯した犠牲があった。

 

(24)『言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない』

イエスさまの非常に厳しいたとえ話であり、最初に招かれた人々にとっては淋しい結末になる。ローマ11章11〜14節「ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない。かえって、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです。彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう。では、あなたがた異邦人に言います。わたしは異邦人のための使徒であるので、自分の務めを光栄に思います。何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです」。とあるように、イエスさまの厳しい言葉の裏には、やはりここにも救いに導きたいという愛の配慮があったのではないだろうか。

 

結論:

私たちが救われ、神の国の食卓につくことが出来るのは、そこに神さまの無理、すなわちご自身の独り子を十字架につける、という大きな痛みの伴う愛の犠牲があったからである。その愛を受けているのだから、神さまからの招きに対して様々な理由を付けて断るのではなく、神さまの導きにしっかりと従って行くこと。私たちを命をかけて愛して下さる神さまだから、決して私たちを悪い所へ導いたりはしない。信頼して全てを委ねること。

神さまは私たちが救われ、神さまに従うことが出来るよう造り変えられることを心から望んでおられるのです。