喬木教会礼拝説教
2001年10月14日
永遠の命までの計算
聖書箇所 ルカによる福音書 14章25〜35節(P.137,8)
イエスさまはエルサレムへ向かっていた。イエスさまはその旅が十字架に行き着くものであり、そこには苦しみと悲しみがあることを知っていた。しかし、従ってくる群衆は、エルサレムへの道は、イエスさまがこの世の支配者になるための旅であると思っていた。そのため、群集は浮かれていたが、その彼らに向かってイエスさまは厳しい激励を与えた。
14:25大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。26「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。27自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。
だいぶ過激な言葉であるような気がしないでもありません。イエスさまに着いて行くということは、自分を育て、愛してくれた人々、そして自分の命さえも憎め、というのです。この憎むという言葉が、私たちには厳しい言葉に聞こえる訳ですが、旧約聖書では、「〜よりも他方を愛する」という比較の言葉で使われています。ですから、訳によっては、自分の兄弟よりも私を愛さないものはイエスさまの弟子ではない、とされています。
ですから、自分を愛してくれる人々よりもイエスさまを愛し、そして自分の十字架を背負うことによって、イエスさまの弟子となれる、ということであります。
とても厳しく、私たちには無理、と思える要求であるが、この世の愛とイエスさまの愛の違いが明確にされ、私たちの本当に幸せになるたの道を示して下さっている。
14:28あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。29そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、30『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。31また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。32もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。33だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」
私たちはいつも計算をしていないだろうか。今日やるべきことがいくつあり、それに使える時間はどれくらいか。自分がどこかに行くことによってどれだけ自分の利益が出るか。自分が恩を売れば、どれくらいになって返ってくるか。等々。
人間関係や人生において計算ばかりをしていると、何かいやしいような気もしますが、ここにおいては、クリスチャンも計算するように促しているような気がします。イエスさまを信じることによって、自分の人生がどうなるのか。教会に来ることによって、自分がどうなるのか。そして永遠の命を得るためには、私たちは何をしなければならないのか、です。
この計算が中途半端になれば、私たちは見ていた人々から嘲られる、とあります。ですから、しっかり計算したいと思うのですが、簡単に考えてみましょう。
まず、自分の望む結果、「目的」を考えてみましょう。それは自分にとってマイナスのことですか?プラスのことですか?
自分にとってマイナスのことをやりたがる人はいないでしょう。それはプラスの数値であるはずです。
続いて「自分」を見てみましょう。最初に考えた「目的」をやり遂げる力が十分にあるでしょうか?もしあるのであれば、その目的をやったところで対してプラスにはならないでしょう。
生まれながらにして罪を持った私たちには、強い、完璧な力はありません。誰もがコンプレックスを持っていて、途中で投げ出してしまいたくなるような弱さがあり、力を十分に発揮できない迷いがあります。ですから、「自分」を考える時、私たちはそれがマイナスの数値であることを認めざるを得ないのです。
そして「目的」と「自分」を計算する時、それは足し算や引き算で済む問題ではありません。そこには掛け算が用いられます。ですから<プラスの「目的」×マイナスの「自分」>となってしまうのです。
プラスとマイナスを掛けると、その答えは必ずマイナスですよね。
一つのことをやり遂げても本来の自信とはならず、完璧でなかったことを悔やみます。そしてちょっとしたミスを悔やみ、それを人や状況のせいにしてしまいます。目的をやり遂げられなかったらそれこそ愚痴しか出てこないのです。マイナスからマイナスへ移ってしまいます。
そんな計算しかなりたたない私たちに人間に、神さまはどのような恵みを下さったでしょうか?
素晴らしい恵みを与えて下さいました。それが十字架です。十字架は「十」と言われているだけに、プラスに見えるものですが、実はそうではないのです。
当時の極悪人が処刑される方法が十字架だったからです。最も重い罪を犯した者が、最も残酷な刑として用いられたのが十字架です。ですから、今でこそアクセサリーになり、人々から親しまれていますが、イエスさまの時代の十字架は、肉体的な痛みと苦しみ、そしてさらし者とされ、人々から罵られるのですから、精神的にも苦痛を伴うものでした。だから人々を縮み込ませるものであり、決してプラスになるものではなかったのです。これこそマイナスのマイナスです。
ところが、このマイナスが「マイナスの自分」に掛けられるものだから、そこに大きなプラスが生じます。それに対して目の前の困難であればあるほど自分を成長させるプラスの「目的」があるのですから、私たちの将来に約束されているものは、イエスさまの十字架によって、素晴らしい希望ある将来とされているのです。
イエスさまにある計算方法 <+の将来の素晴らしい目的>×<−の弱い自分>×<−の十字架>
こうやって計算してみると、私たちは十字架に頼って生きていくしかないのです。十字架なしに、この世の人々をどんなに愛しても、それはプラスにはなりえないのです。十字架があってのみ、本当に愛することが出来て、永遠の価値を生むのです。
14:34「確かに塩は良いものだ。だが、塩も塩気がなくなれば、その塩は何によって味が付けられようか。35畑にも肥料にも、役立たず、外に投げ捨てられるだけだ。聞く耳のある者は聞きなさい。」
私たちはこの世にあって、正しい計算をしているでしょうか?本当の意味で命を得る計算です。この計算に基づかないで生活する時、私たちの存在価値は塩気のなくなった塩と同じだとイエスさまは言われます。
とても厳しい言葉ですが、イエスさまは愛する子であるからこそ厳しいことを言われています。私たちは謙遜に聞きたいと思うのですが、この塩にはどのような意味があったでしょうか。当時、どのように塩が活用されていたのか見てみます。
1. 塩は防腐剤として用いられていました。そのため食物の保存に用いられています。塩がなければ腐ってしまうものでも、塩があるお陰で新鮮さを保てたのです。肉のままの人間が進む道は滅びです。そこに永遠の命をいただいた私たちはどのようにあるべきでしょうか?
2. 塩は調味料として用いられていました。塩気のない食事は味気ない。胸をむかつかせます。私たちの人生に味気を持たせ、社会を色づけるのは神に生かされ、喜びを知った者であるはずではないでしょうか?
3. 塩は肥料として畑に用いられていました。良い作物を育ちやすくするために用いられているのです。神に赦され、愛されている私たちには一体何が求められていたでしょう。互いに愛し合うことでした。愛こそが人を変えるものであり、愛によって、人々の心に植えられた福音の種が芽を出し育ちやすいようにするのが我々のつとめではないでしょうか。
神さまから招かれて、導かれてこの場に集い、そしてイエスさまを知った私たちです。イエスさまを知ったことにより、自分がどうなるのか。しっかりと計算をしたいと思うのです。この世のものが私たちに本当の平安、喜びを与えるでしょうか?わたしたちが目的としていることが、本当に将来プラスになることなのか?そしてこの地上の塩として生活することがどれだけ充実した人生なのか。
何が徳なのかを計算すればするほど、私たちはイエスさまを他の何にも増して愛し、自分に与えられた十字架を背負うことを選びたくなるのではないでしょうか。
自分に与えられた十字架こそ、私たちが私たちらしくあり、そして神さまに対しても、この世に対しても素晴らしい生き方を保証してくれるものなのであります。