喬木教会礼拝説教
2001年10月21日
天にある喜び
聖書箇所 ルカによる福音書 15章1〜10節(P.138,9)
15:1 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。2すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。
イエスさまが、普段自分たちが軽んじている人と接し、敬われることの大好きな自分たちが無視されている。イエスさまは、彼らの所ではなく、私どもの所に来るべきだ。これがファリサイ派や律法学者たちの思いであったでしょう。
ファリサイ派の律法の中には、律法を守らない民との交わりは固く禁止されている。それらの人々交わることは、自分を汚すことであった。だから、イエスさまがその人々と挨拶をし、話しをするということは、ファリサイ派にとってはとても大きな衝撃となる。
そこで、何とかしてイエスさまを間違いに気付かせ、自分たちの所に来るように仕向けよう。その思いがさりげなく語られる言葉に込められていた。それが不平となる。
不平は、自分は平等に扱われていない、不当な仕打ちを受けている、という意味であり、自分をもっと丁重に扱え、もっと自分を見てくれ、という思いの現れである。
自分の中に不平が生じた時、心の中を覗いてみてください。自分はもっと注目されるべきだ、自分はもっと出来るのに、本当の自分はすごいのに…などという思いがありませんか?
3そこで、イエスは次のたとえを話された。4 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか5そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、6家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう7言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
日本において、羊飼いという仕事がどのようなものであるのかよく理解は出来ないでしょう。思い浮かべるのは、「アルプスの少女ハイジ」に登場する「ピーター」くらいです。
ユダヤという地域には、日本で考えられるような牧場はほんのわずかしかないのです。そして断崖絶壁、荒廃した砂漠がその周りを囲んでいるのです。また羊は、個人の所有物ではなく、村全体の所有となっていることが多いそうです。その羊を2,3人の人で常に管理していました。ですから自分の不注意で羊を損なったら、それこそ大きな責任問題になってしまうのです。
羊飼いのという仕事は、決して気楽ではありませんね。大きな責任を背負っての仕事ですですから、羊たちを「群」として見るのではなく、「一匹、一匹」として見るようになります。さらに、その地形にある危険や、天候の変化にも敏感になり、絶えず羊たちに神経を注いでいるとのことです。
羊が迷子になると、羊飼いはその足跡を追って捜し回るそうです。無事な羊たちを捜しに行っていない羊飼いが村に連れて帰ると、捜しに行った羊飼いが、迷子になった羊を抱えて帰ってくるのを、山を見つめながら待ちつづけるのです。そして無事に羊が見つかって帰ってくると、村中が喜び彼らを迎えたそうです。
イエスさまのたとえ話には、このような背景があってのことでした。
ファリサイ派や律法学者たちは、「罪人」と決めた人々は、救われる希望がないと決めておりました。そして彼らは救われるより、一人も残らず神によって滅ぼされることを望んでいたのです。しかし神は、イエスさまのたとえ話のように、羊飼いのように、神の前から迷い出た一人の人のために、イエスさまという神の独り子を世に遣わして、その人を見つけ出そうとしているのです。そして見つけた時には、大きな喜びがある、と言われているのです。
私たちは自分で自分の価値はない、と決め付けることが殆どです。でも、その私たち、あなた自身を、神さまは求め、そしてあなたが神さまのもとに帰るならば、天においては大きな喜びがある、というのです。
8「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。9そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。10言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」
銀貨がなくなってしまった女性の話しをイエスさまはされました。私は、銀貨と聞くと素晴らしく価値のあるもののような気がしてしまうのですが、イエスさまの話されたこの例えにはどのような背景があり、また意味があるのでしょうか。
ドラクメ銀貨の価値ですが、どれほどのものなのでしょうか?新共同訳聖書だと、後ろに単位の表があり、そこにどれくらいの価値であるのかが記されております。そこを見ると、「ドラクメ。新約・通貨。ギリシアの銀貨で、重さ約4.3g.デナリオンと等価」とあります。ではデナリオンはというと、「デナリオン。新約・通貨。ローマの通貨で、1デナリオンは、1ドラクメと等価.(1日の賃金に当たる)」とあります。ですから、1日の賃金分である、ということですね。他の書物(‘93年発行)を見ると、当時の1日の賃金、1ドラクメは390円と記されております。
390円程の価値しかない。一日の賃金分ですから、現代で言えばもうちょっと価値があるかもしれませんが、それでも私たちであれば、この女性のように、そこまで必死になって捜しはしないでしょうね。
ではこの女性にとって、その銀貨はどれほどの価値をもっていたのでしょうか?
もしかしたら、この銀貨があるかないかで、当時は貧しい生活ですから、家族が餓死してしまうかも知れない、という非常に危機的状態にあったのかも知れません。また、当時は結婚指輪と同じ様な意味合いで、10枚の銀貨をそろえた髪飾りが結婚のしるしとしてあったそうです。今でも結婚指輪を無くしたら大騒ぎすると思うのですが、この女性もその銀貨を無くした、ということで必死に捜したのかも知れません。
他人にしてみたら価値がないかも知れない。でも、この女性にとっては、とても重要な価値を持った銀貨であったのです。
罪を犯す者。律法を守らない者。彼らはファリサイ派や律法学者からは全く意味を持たない存在でした。でも、神さまにとっては、とても価値のある、尊い存在だったのです。
私たちは、神さまを知らずに歩んでいましたが、今こうして礼拝を守り、または聖書の言葉に触れられるのは、この神さまから頂いた愛により、見つけ出されたゆえなのです。
私たちが見つけ出されるために、神さまは何をしてくださったでしょうか?
ご自分の独り子であるイエスさまをこの地上に送って下さいました。そして私たち一人ひとりを見出すために、朝も夜も必死で捜し回って下さいました。「念入り」に捜してくださったのです。さらに、私スちをご自分の所に引き戻すために、イエスさまを十字架につけ、その血により代価まで支払って下さったのです。
私たちはそれだけ、神さまの目から尊い存在、愛されるべき存在であったからです。
私たちが神さまのもとに立ち返り、神さまを信じて歩むのであれば、天においてはどれほどの喜びがあるでしょうか。神さまは、私たちが神さまに心を開き、神さまの前に立つ者となることを心から待っておられるのです。
天の喜びに与かる者とさせていただきましょう。