喬木教会礼拝説教                            2001年11月4日

兄の特権

聖書箇所 ルカによる福音書 15章25〜32節(新共同訳)

15:25ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。26そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。27僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』28兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。29しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。30ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』31すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。32だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」

 

前回の聖書箇所からの続きである。無事に帰ってきた弟を喜び迎えた父。その光景に弟は腹を立てているのである。私たちの社会で考えるのであれば、兄の怒りは当然とも思える。父の行為こそがえこひいきであるようにさえ思える。聖書は、私たちに天の父がひいきをすることを教えているのだろうか!?

 

私たちの多くは、弟の姿に自分を重ねて読むので、兄の怒りは不適切であると感じる。しかし、私たちを兄の姿に重ねたならばどうだろうか。弟を喜んで迎えている父に対して抗議したくなる気持ちは十分に理解できないだろうか。

 

兄の姿を見てみる。彼はいつもマジメに父に仕えていた。マジメに働いていた。遊びをしらない。とても素晴らしい青年(?)である。しかし、その反面、マジメに父に仕えてはいたが、それは父に対する愛からではない。マジメに働いていたが、そこには喜びも感謝もない。素晴らしい青年であったが、「そうあるべきだ」という概念に捕らわれていた。

だから弟のような遊びほうけて帰って来たくせに、喜びをもって迎え入れられ、しかも子牛が屠られた宴会まで催されていることに我慢がならない。弟は帰ってくることなく、途中で息絶えていることを願っていた。

この兄の姿は、イエスさまの時代の律法学者やファリサイ派と同じではないだろうか。自分は神の律法を守っている。律法を守れない罪人どもは滅ぶより他ない。彼らが救われるなんて我慢できない。その姿である。

 

自分の義が認められず、不義を犯し続けた弟が喜ばれていることに怒っている兄のもとに父がやってきた(28)。兄はその父に抗議します(29)。その言葉に不満と、妬みがよく現されいる。さらに「娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶし」たと、弟の生活を知りもしないのに嫌疑をかけ、弟を窮地に追いやろうとしている。自分の義を証明するのに、他人の過ちを大きくして告発する。

 

その兄に対して父は何と言われたか。「子よ。お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部お前のものだ」(31)。父はそう言った。いつも一緒にいて、全てお前のものだ、と父は言ったのだ。これはなんと言う大きな恵みであり、そして驚きではないか!!こんな凄いことがあるものなのか。

兄は、父に「子山羊すらくれなかった」と言ったが、父は「私のものはお前のものではないか」と言った。

兄がこの事実を知っているのであれば、どうなっていただろうか。父に対する感謝の念は大きくなっていただろう。父に対する愛も強くなっていただろう。そして弟が帰ってきたならば、喜びを持ってそれを迎えることが出来ただろう。

しかし兄は、父のものが自分のものであることを知らなかった。知っていても生かせなかった!!

 

このたとえ話は「放蕩息子」と呼ばれる。そしてその放蕩息子は「弟」だけを指して言われているようだ。しかし、その息子は、弟はもちろん、兄もそこに含まれているのである。

弟は文字通り、財産を湯水のように使い尽くした。立派な、目に見える放蕩だ。では兄は?兄は父から全てのものを与えられているのに、父の愛を知らずに、与えられているものも知らずに、ただ黙々と与えられた仕事をこなしていた。喜びも感謝も愛もなく。それは、与えられた財産を用いない、活用させない、という無駄な使い方(放っておく)をしていたのだ。兄の財産の用い方も放蕩と同じである。

 

私たちが生活をする中で、喜びを持つ時はどんな時であろうか?それは、自分に与えられた賜物(才能)がフルに活用されている時である。音楽の賜物がある者は音楽をし、文才がある者は文を作成し、語る者は語り、奉仕する者は奉仕し、捧げる者は捧げる。自分に与えられた賜物を用いることだ。

これらの賜物は個人差もある。しかし、全ての人に共通した賜物もある。それは御子が私たちの体を、十字架によって命を捨てることにより、罪という死から救い出してくれたことだ。私たちには永遠の命という賜物が与えられている。この賜物をフルに活用する場が礼拝だ。

私たちは礼拝において主と深く交わり、与えられた賜物を確認し、そしてその喜びを満たしていただく。

 

ある人は弟のように、与えられた財産を思いっきり自己満足のために活用する。ある者は兄のように、与えられた財産を知らずに、無駄に費やしていく。どちらもその心を本当に満足させることは出来なかった。

本当に私たち人間の心を満足させるのは、「我に返り」神に与えられた永遠の命だ。

その命に満たされた時、父に愛からの奉仕が出来、弟をも喜びと共に迎えられる。

宴会が催されているのだ。その喜びに与かるために、与えられた財産を無駄なく使っていこう。