喬木教会礼拝説教 2001年11月18日
二者択一
聖書箇所 ルカによる福音書 16章1〜13節(新共同訳p.140)
16:1イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口をする者があった。2そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』3管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。4そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』5そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。6『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』7また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』8主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。9そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。10ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。11だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。12また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。13どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」
財産を不正に流用していた家来の話しです。これはどう解釈してよいのか困ってしまう箇所です。不正な富で友を作り、そのことで主人からほめられているのですから。
どういうことなのか、みてまいりましょう。
当時は不在地主、というその場には住んでおらず、管理を全て家来に任せている主人、が多かったようです。この主人もその一人だったのでしょう。信頼して全てを任せていた家来が財産を使い込んでいる、という噂を聞き、慌てて自分の財産を確認しに来ました。
さて、会計報告を提出するように求められた家来、管理人は戸惑います。どうしたものか、案を練ります。そこで一つの方法を思いつきました。その思い付きには二つのニュアンスがあると思います。一つは、本当の友を作ること。もう一つは、言葉が悪いかも知れませんが、共犯者を作るのです。
誰を友、又は共犯者とするのでしょうか?
同じ主人に仕えていた人々、借りのある人々でした。
彼らは主人には借りがあります。その借りを誤魔化すのです。ここで言われる借りとは、おそらく地代であったのでしょう。地代は金銭ではなく、物品で支払われていたからです。
この借りを誤魔化したので、後に管理人は彼らから感謝もされるだろうし、されなければ、ゆすることも出来るようになったのです。まぁ、「共犯者」という形ではあまり考えたくないですね。
管理人がしたこの行為は、主人には内緒のはずです。会計報告だって、うまく誤魔化しているはずです。ところが、主人はこの管理人の行いをすべて知っていました。ですから、主人は管理人をさらに厳しく裁くことが出来たはずです。ところが、主人はこの管理人を警察に突き出すどころか、ほめているのです。
なぜ、悪いことをとした管理人はほめられたのでしょう?
8主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。
管理人は、抜け目なく自分の生きる道を探り、その道を得るために熱心に励みました。さらに、そこには「光の子ら」との比較がなされているのです。これはとても意味深いような気がします。
「光の子ら」が比較に出されているということは、光の子らは、それほど賢く振舞っていない、ということになるのです。どうでしょう?賢く振舞っていないのでしょうか?
9そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。
さらに、正しいことを追い求める光の子らには理不尽に思えるような言葉が続きます。
不正な富で友を作れ、というのです。これはどんな意味があるのでしょうか?
こんな言葉があるそうです。「この世では金持ちが貧乏人を助け、来るべき世では貧乏人が金持ちを助ける」また、「いつまでも存続する倉とは、貧乏人のふところと、やもめの家と、子ども達の口である」。
これらの言葉は、ユダヤ教の信仰から出てきた言葉ですが、貧しい人々に慈善をほどこすことは、来世のための担保を確保することにならなかったそうです。ですから、人の富は、どれほど持っているかではなく、どれほど与えたか、ということで測られるそうです。
これは所有物のあり方が示されているのかも知れません。自分の欲を満足させるための所有物ではなく、神の恵みを表すための所有物であるべき、ということではないでしょうか。
そして不正を働いた管理人の中で語られるに相応しくない言葉が続きます。10ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。11だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。12また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。
管理人が持っていた財産は全て主人のものでした。本来彼が使い込むことも、または借金を軽減することも、彼には許されない行為です。
では、私たちが持っている財産であればどうでしょうか?
私たちの物であるから、使ったって、他人に貸した分をチャラにしてあげたってかまわないはずのものです。しかしそうではない。私たちが持っているものは、自分の物のようで実はそうではない。実は、不正な管理人が持っていた財産と同じもの、神さまという主人の物を預かっているにすぎないのだ、ということです。
私たちが管理している財産。これをこの地上においてどう用いるか。その用い方が、将来天国においての私たちの本当の財産に影響する、ということなのです。
この地上にあってしっかりと管理できない者が、天国においては管理できる、ということはないということです。
13どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」
現在は、二つの職業を持つことは可能です。定職を持ちながらバイトをする(多くは禁止されていますが)ことも可能なわけです。ですから、二人の主人に仕えることは可能なわけですが、当時の状況はそうではありません。
奴隷は、所有物と同じ扱いをされていました。休暇や余暇、アフターファイブはないのです。徹底して奴隷。主人に仕え続けるしかなかったのです。ですから当然二人の主人に仕えることはできませんでした。
また、心理的にも、二つの仕事を持つ、二人の主人を持つという状況になれば、片方を好み、片方を軽んじる、又は嫌う、ということは当然起こってくるのです。
まとめてみますと、どのようなことを言われていたでしょうか。
1.
光の子として賢い歩みをしていただろうか
この世の子らは、生きるために必死に知恵を絞り、その道を探り、努力しています。光の子とされた私たちはそのような努力をしているでしょうか。
イエスさまが十字架にかかり、私たちの罪を贖い、本当の命を与えて下さいました。その命を得た、という段階で努力を止めてしまうことは決して賢くはありません。
「神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです」(1テモテ1:7)。この霊に満たされて生きる時、けっして愚かな歩みはしないでしょう。
2.
自分の所有している財産を、神さまから与かったものとして管理していただろうか
私たちが頂いている財産の一つに、才能(賜物)があります。金銭的な財産と共に、この賜物を正しく用いているでしょうか。
教会は「キリストの体」です。あなたの賜物が捧げられ、用いられて、初めてその体が成り立つのです。与えること、捧げることが、私たちが本当に生きるための手段です。
神の恵みを知らないで生きている方を、恵みに生かされていることを知る者として、共にその責任を担っていくものとなりましょう。
3.
自分の主人は本当に神さまだけだろうか
キリスト者として生きる時、私たちの本当の主人は、私たちを愛し、私たちを受け入れて下さった神さまだけです。
しかし、この世の生活をしていれば、当然趣味も出来るでしょうし、集中しなければならない仕事もあります。一緒にいて楽しい友人とはいつまでも一緒に遊んでいたいでしょう。またテレビなどは一度つけると消すのが難しかったりもします。貯金通帳だって、たまれば溜まるほど、溜めたくなっちゃうし。
そんな時こそ、これらのものが偶像となり、私たちの主人になりやすくなってしまうのです。
私たちは神さまに仕えるのか、それともこの世の富に仕えるのか、どちらかの状態でしかありえないのです。
どちらに仕えますか?
日々御言葉に養われ、神さまの前に、自分の主人は全知全能であり、私たちを救い、私たちを生かし、全てを支配しておられる方だけであることを確認したいと思います。
そして、神さまに仕えることにおいてこそ、私たちの知恵を働かせ、精一杯励みましょう(神さまに仕えることは、何も教会で奉仕をすることだけではありませんからね)。