喬木教会礼拝説教                           2001年12月2日

神は我々と共に

聖書箇所 マタイによる福音書 1章18〜25節(新共同訳p.1,2

1:18イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。19夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。20このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。21マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」22このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。

23「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」

この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。24ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、25男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。

 

神さまは、私たちのことを愛していて下さり、私たちと共にいてくださる。これが聖書のメッセージです。

この神さまはどのようなお方でしょうか。日本には多くの神さまがいて、一言で「神様」と言うと、修行をしなければその声も、存在も感じることの出来ない存在のような気がしてしまったり、また一緒にいられると、いつも自分の欠点を責められてしまうような気がしてしまったりしないでしょうか。

しかし、イエスさまによって表された神さまのお姿は、この日本で言われる「神様」とは感じが違います。どう違うのか。一つは、「唯一の神」であります。日本では「八百万の神」と言われますが、聖書では神さまは唯一つであることを教えて下さっております。それから、私たち人間をはじめ、この地上全てのものを造られたお方であることが示されております。人間が作る神様ではありません。人間を造った神さまです。そして最後に、私たちを命をかけるほどに愛して下さっているのが神さまだといわれております。

この神さまが私たちといつも一緒にいてくださるのです。では、ありのままの姿を愛された私たちは、この神さまにどのように応答していくべきでありましょうか。

今日は、ヨセフを通して、私たちも神さまにどのように応答してけるのか考えてみたいと思います。

 

ヨセフは、マリアが妊娠したことを知って、離縁しようと考えたそうです。なぜ、離縁なのでしょうか?婚約ですから「解消」ではないのでしょうか?

イスラエルの結婚には3つの段階があったそうです。

1つめの段階婚約。結婚は人間の情や思いつきでするにはあまりにも重要な事柄なので、親や専門の仲人によって決められたそうです。中には子どもの時から相手を決めてしまうこともあったそうです。相手を決めてしまう段階が婚約でした。

2つめの段階許婚。決めていた婚約を承認すると許婚となるそうです。もし本人が気に入らなければ解消も出来たそうです。しかし、決めてしまうと、この許婚は簡単には解消出来なかったようです。さらに、この期間は1年間もたれ、その期間は夫や妻としての権利を持っていないのに、対外的には夫、妻として扱われたそうです。さらに、この期間に相手に死なれた女性は、「やもめ処女」と呼ばれたそうです。この許婚を解消するには、「離縁」するより他に手はなかったそうです。

3つめの段階結婚1年の許婚の期間が終ってようやく結婚式です。ここからは私たちの理解している結婚とほぼ同じになるでしょう。

 

ヨセフはどのような人物であったのでしょうか?おそらく、とても優しく、気前がよい人だったのではないでしょうか。

マリアが妊娠した。自分には覚えがないのに妊娠した。これは彼にとっては裏切行為ですよね。マリアは姦淫の罪を犯したと、当然考えられます。そして姦淫の罪を犯した場合の処置は、旧約聖書の律法によると、申命記22:22〜24「男が人妻と寝ているところを見つけられたならば、女と寝た男もその女も共に殺して、イスラエルの中から悪を取り除かねばならない。ある男と婚約している処女の娘がいて、別の男が町で彼女と出会い、床を共にしたならば、二人を町の門に引き出し、石で打ち殺さねばならない。その娘は町の中で助けを求めず、男は隣人の妻を辱めたからである。あなたはこうして、あなたの中から悪を取り除かねばならない。」とあります。マリアは公の場で処刑されなければならなくなるのです。

または、ひそかに当時の離婚法に基づき、離縁状を渡し、去らせる。という手段もありました。

ヨセフは内密の内にマリアを去らせる方を決意したのです。それは、マリアを想う、優しさ、愛からの決断だったでしょう。彼は裏切られたことの痛みを乗り越え、マリアの身の安全を考えたのでした。

人間的にみるのであれば、彼は素晴らしいと思えます。近年はふられたり、傷付けられたりすると、憤り、ストーカーになったり、嫌がらせをしたりする人もいるというのに、あくまでも相手のことを考え、それでいて常識的にもしっかりとケジメをつけようとしたのですから。

しかし、神さまの思い、ご計画はどうだったでしょうか。私たちが気を付けなければならない点がここにあります。

何か決意しようとする時は、まず、神さまの導きを求めなければならないのです。この世の常識的には、世間的には立派な行動を取ったとしても、それが神さまの御思いと違ったならば、私たちは大きな損失をしてしまいうのです。ヨセフはそのことを「主の天使」によって知らされました。

20節「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。

私たちが気を付けなければならないことは、この世で言われる「常識」、「愛」、「優しさ」等、人から賞賛される事柄であっても、神さまの御思いとは異なる場合がある、ということであります。

そのことをどのように判断するのか。それは私たちに与えられている聖書の御言葉、そして祈りの中で主に教えていただくしかないのです。

共にいてくださる神さまに応答してい生活するためにも、聖書の言葉に立った歩みをしたいものです。

 

続いて、ヨセフに語られた天使の言葉を見てみますと、裏切った、と思わせたマリアの妊娠は、実は聖霊が宿ったという驚くべき知らせが語られております。

聖霊によって宿った。誰が信じられるでしょうか。本当にそんなことがあるのでしょうか。

とても信じられない出来事ですが、このことが信じられ、大切にされております。私も信じられない出来事だろうなぁと客観的には思うのですが、これは事実だと疑いもなく信じてしまっております。

考えてみますと、私たちクリスチャンは、この世の出来事としては到底信じることの出来ないようなことを信じて歩んでいるものであります。

イエスさまが処女に宿った話し。そしてイエスさまの癒しや悪霊を追い出す奇跡。イエスさまが人(私たち)の罪のために十字架にかかり死んだこと。さらに、この十字架を信じる者は罪が赦され、神の子とされ、永遠の命をいただけること。そして、イエスさまが死んで三日目によみがえったこと。さらに、終末、世の終わりにイエスさまが再びこの地においでになるということ。

これらのことを真剣に、本当にあったこと、またこれから起こること、として信じているのです。これらのことは科学的には説明できないことです。本当にあったことなのか、聖書の記事以外にはこのことを証明する資料は残っておりません。でも、私たちは、誰かに無理やり押さえつけられて信じさせられた、のではなく、自ら、本当の出来事だと信じているのです。

なぜでしょう?「神は我々と共におられる(23節)からです。

この神は「聖霊」によって宿った。聖霊ご自身だと言われます。そして聖霊はどのよう存在かというと、私たち人間に神さまの真理を伝え、そして私たちの真実を見る目を開いて下さり、理解させて下さるお方です。

さらに、創造の御業の際に「神の霊が水の面を動いていた(創世記1:2)と言われる通り、創造の御業を起こして下さる存在です。

人に真理を悟らせて、そして人を造りかえることの出来る存在、それが聖霊さまなのです。

この聖霊によらなければ、ヨセフはいくら天使が大丈夫だ、と言ったところでその言葉を信じることは出来なかったでしょう。しかし、聖霊さまによって、彼は自分が持っていた概念、習慣、性格、それらを打ち砕き、神さまに喜ばれるあり方を理解したのでした。

この聖霊さまは、いつも私たちと共にいてくださる、という神さまそのものであります。ですから、いつでも私たちに、神さまの真理を理解するように働きかけていてくださるのです。

この働きかけに答えるのであれば、私たちはイエスさまの語られたことも、十字架の意味も、神さまが私たちの人生にどのように働いて下さっているのかも理解でき、また出来なくても期待することができ、心からの感謝と讃美が生まれるのです。

神さまの前にあって、私たちは心を謙遜に、御言葉を信じて受け入れる者でありましょう。

 

最後に、主の天使に真理を告げられ、それを受け入れたヨセフは何をしたでしょうか。

聞いて、神さまのご計画は理解出来た、でも、自分には関係ない。それより自分は傷付いていて、ちょっと回復まで時間が必要だと言ったでしょうか。

聖書は簡潔にヨセフの行動を記しております。24節「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、」。聞いた言葉を、自分が傷付いていた状態であろうと、または完全に理解した訳ではなかったであろうとも、とにかく聞いた通りに「実行」をしたのです。

結婚前に妊娠した女性を迎え入れるのですから、世間の目は冷たかったでしょう。物笑いにされたかも知れません。常識という物差しで、思いとどまるよう説得した友人がいたかも知れません。

でも彼は、与えられた御言葉に従順に従う決意をし、その通り実行したのであります。

本来、私たち人間には聖霊の働きかけに素直に従い得る能力はないのかも知れません。でも、そこが聖霊さまの凄いところですね。聖霊さまご自身が、創造の御業を持って、私たちを造り変えて下さるのです。

創造主である神さまは、私たちが御心に従い得ることが出来るように造り変えることの出来るお方なのです。

御言葉は聞いて、心を満足さ、安心感を得るためだけのものではありません。御言葉は実行し、初めて自分の霊的な栄養分として体に、霊に吸収されていくものです。実行してようやく意味をなすのです。

私たちは、現実の社会で、聖書の時代にはあらゆる奇跡が起こったが、今は無理だ、と最初から諦めているフシがありませんか?大きなビジョンを持つことは、現実的ではないと考えてしまってはおりませんか?神さまに期待するより、自分たちの小さな努力は先決するべきだと考えてはいないでしょうか?

もし私たちが神さまの御言葉を実行したい、と願っていれば、聖霊さまは喜んで私たちの内に大きな変革を起こしてくださいます。ですから私たちは心の内に、「でも」とか「だって」とか言う言葉は除き去り、心を神さまに明け渡し、実行をしましょう。そうしたら、私たちの周りで成される神さまの御業がますます豊かに明確に、私たちの目に映ります。

御言葉を実行して、私たちの信仰は強められ、豊かにされるのです。

神さまは私たちいつも一緒にいてくださる。

神さまはただボーっと私たちの傍らに突っ立っているお方ではありません。

私たちの内に、大いなる変革を起こし、私たちが本当に生き生きと、喜びを持った生涯に入るために、一生懸命働きかけ、またその生涯に入った方には様々な手助けをして下さり、私たちが神さまに連なる者として、多くの実を結ばせようとして下さっているのです。

いつも共にいてくださる主に、私たちは心を明け渡し、大いなる祝福の生涯を歩ませていただきましょう。