喬木教会礼拝説教                           2001年12月9日

贈り物を捧げる

聖書箇所 マタイによる福音書 2章1〜12節(新共同訳p.2

2:1イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、2言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」3これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。4王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。5彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。

6『ユダの地、ベツレヘムよ、

お前はユダの指導者たちの中で

決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、

わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」

7そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。8そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。9彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。10学者たちはその星を見て喜びにあふれた。11家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。12ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

 

ヘロデ王はとても良い王様だったようです。もともとはユダヤ人とエドム人の間に生まれた子ですから、王になれる身分ではなかったようですが、ローマ人のために業績を積み、そして王となった人物です。ですから、人格的には、抜け目なさがあったかも知れませんが、気の利く、まぁ立派な人ではなかったかと思うのです。その証拠に、彼がユダヤの王となってから、その国に飢饉があった際には自分の金の器を溶かし、その費用で難民に穀物を施したと言われているのです。その他にも、パレスチナの内乱を抑え、その地域に平和をもたらしたと言われます。また、建築にも優れた才能をもっており、エルサレムに崩壊した神殿を再建したり、その他風呂や劇場など、様々な建築を残したそうです。

そんな王様でしたが、致命的な欠点がありました。猜疑心の強さです。この欠点は晩年になってより強くなり、そして現れて来ました。どのように現れたのかと言いますと、自分の地位を脅かす者をことごとく抹殺するのです。殺害される者の中には当然身内の者が入るわけです。自分の妻や義理の母親。さらには息子たち。その他、殺された者の数は非常に多かったことでしょう。ですから、人々はこの王様を恐れました。彼の猜疑心を駆り立てないために最大の努力を注いだのです。

そんな時に、この王様がまた殺戮を繰り返さざるを得ないニュースを運んでくる者がいたのです!!

それが東方から来た占星術の博士たちです。

彼らは王として生まれた者を拝みに来た、というのです。この言葉がどれだけの悲しみを生む言葉になるのか、外国から来た博士にはわからならなかったでしょう。でも人々は恐れました。王様はすぐに宗教家を呼びました。「ユダヤ人の王が生まれた」という言葉を聞いてすぐ、祭司長や律法学者に聞けばわかる、と考えるところもさすがだなぁ、と思わされるところですよね。

そこで、祭司長や律法学者は聖書に長けている人々ですから、すぐに答えがわかるわけです。「あぁ、それはユダヤのベツレヘムですよ」って。

でも、この答え方が恐ろしいですよね。彼らは自分の王様になるお方が生まれたというのに、その人によって自分たちまで被害を被ったらたまらない、早いところ始末しちゃってください、みたいにして王様にその場所を告げているのです。

それで、けしからん奴らだなぁ、と思ったのですが、考え方によっては彼らも凄い。聖書に通じていることの素晴らしさを見たような気がしました。

ある牧師は、「聖書という縦の線と、世界情勢という横の線、これを理解していなければ今の状況を理解することは決して出来ない」と言っております。ですから、聖書を知らなければ、今世界で起こっていることがどんなことなのか、正確に理解することは出来ない、というのです。

その意味では、この祭司長や律法学者は、自分たちの身の安全を第一に考え、聖書の預言を軽んじた訳だが、今の状況から、聖書の預言を考えれば、メシヤはユダヤの地ベツレヘムで生まれる、ということをピッタリ言い当てたのです。

聖書の預言は「予言」ではありません。予め起こりそうなことを述べているのではないのです。必ず起こる、と神さまが言われた言葉を預言者が語っている預言です。ですから、聖書によって語られた預言を知るということは、これから先の未来で何が起こるのかを知ることが出来る、ということです。

これから先、何が起こるのかを知っているということは、なんと安心できることではないでしょうか。

預言によって、メシヤを抹殺し、自分の身の安全をはかろうとした祭司長や律法学者はけしからないわけですが、私たちはここで彼らを裁くのではなく、その聖書に精通したあり方を見習いたいと思います。

私たちは今年度、御言葉を味わう、という標題のもと歩んでおりますが、どれだけ聖書に親しんでいるでしょうか。日々聖書を開き、その中で、神さまが与えて下さった約束の偉大さを思いながら、やがて主に会うその時を楽しみにしてまいりましょう。

 

聖書を開き、神さまの導きを求めていても、その声がなかなか聞こえないことがあります。中には、神さまとの会話がわからない、という方もおられます。どうやって神さまの声が聞こえるのか、というのです。不思議ですが、聞こえるのです。それも、その人その人によって語り方も違ってくるのです。関西の方には関西弁でしゃべる神さまがおられ、東北の方には東北弁。力強い神さまを求めておられる方には力強い語り掛けをしてくださる神さま。優しい神さまを求めておられる方には優しく語りかけて下さる神さま。なんとも不思議に語りかけて下さるのです。

その語り掛けをいただいて、実際に行動をおこすわけですが、やり始めると神さまの御声が聞こえなくなってしまう、なんてこともあるわけです。そんな時は心細いですよ。「本当にこれは御旨だったのだろうか?」と不安になってしまうのです。そんな時どうしたら良いでしょうか?

その場にジッとするべきでしょうか?下手な行動は取らない方が後々のためには良い、と考えますか?それともがむしゃらに示されたことをやり続けるべきでしょうか?

やり続けるべきでしょう。

占星術の博士たちは星に導かれて遠い国からエルサレムまでやってきました。ところが、そこに来て急に星が見えなくなっているのです。どこに新しい王様がお生まれになったのか、肝心なことがわからなくなったのです。その時、彼らはどうしたでしょうか?「ま、ここまでやったのだから良しとしよう」。又は「また星が現れるまでゆっくり待とう」と言ったでしょうか?言いません。彼らは星が導いてくれた。見えなくなった。そうしたら今度は自分たちに与えられた知恵と力で必死に生まれた王様を捜そうと努力しているのです。

私たちにはそれぞれ性格があって、石橋を叩いて渡る人、石橋を叩かず渡る人、石橋を叩いて渡らない人がいるでしょう。どれであっても構わないのですが、御言葉に関しては、石橋を叩こうが叩くまいが、とにかく渡る、という行動をとることをお勧めします。

なぜか?それが神さまからの恵みを受けるために、とっても有益な手段だからです。聖歌でもありますね。沖へ漕ぎ出せって。岸辺に立って眺めていてもわからないのです。沖へでて、深みへ出て、そこで神さまの御旨が明らかにされて、さらなる高みへと引き上げられていくのですから。

占星術の博士たちはどうでしたか?「そんなことヘロデ王に聞いちゃマズイよ」ということでも、とにかく手を尽くしてメシヤを捜そうとしたではないですか。そして出かけると、9節、先に「見た星が先立って進み、ついに長長野いる場所の上に止まった」とあるではないですか。

神さまは時にこのようなことをされるのですよ。私たちが本当に御言葉に信じて従っているのか、試されているのかも知れませんね。

失敗してもいいのです。神さまのために行ったことですから、神さまが責任とって下さるのです。だから、本当に御言葉を信じ、それに従い続けるものとなりましょう。

 

御言葉に従う者のあり方とはどんなことでしょうか?毎日の生活の中で、様々なあり方があるでしょうが、その根底、もっとも重要なことがあります。

星に導かれてついに王なるメシア、幼子に出会った博士たちの行動です。彼らは10節「星を見て喜びにあふれ」、11節「彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、贈り物として捧げた」のであります。

何が捧げられたのか、王に捧げられるべき黄金、神と人との架け橋としての祭司に捧げる乳香、そして生まれた時から十字架の死を表すかのような死んだ時にぬる薬の没薬です。

それらの奉げられた物にも意味がありますが、何よりも、喜んで、イエスさまを拝み、そして宝物を捧げた、という行為に今日は注目したいのです。

クリスチャンは、神さまに私たちの心の王座を明け渡して、主に従う訳ですが、その現れがこの行為だということなのです。

私たちは神さまを礼拝するのに、喜びを持っているでしょうか?「あぁ、もう日曜日だ。今日も教会に行かないと」とか、「今日も日曜日だから、教会に行くか」と無気力で教会に来たり、「日曜日は教会に行く日だから」と習慣で礼拝に出席したりしていないでしょうか。

そして、イエスさまを拝むことも、本当にひれ伏す思いで、私たちの救い主イエスさまを礼拝しているでしょうか?まさか、礼拝の順序にそって歌っているだけ、祈りを聞いているだけ、説教を勉強として聞いているだけ、なんていうことはないですよね。

さらに、捧げ物。礼拝の中で献金がありますが、そこで献金をしているからもうそれで良し、としてはいないでしょうか?博士たちは宝物を捧げました。とっても大切なものです。そしてイエスさまはご自分の体を、命を私たちに捧げました。そのイエスさまに向かって、まぁそこそこ捧げればよい、とは思っていないですよね。では何をどのように捧げているでしょうか?私たちの生活の中心を捧げているでしょうか?今、三上さんから託された本「不良牧師」のアーサー・ホーランド先生は、献金や奉仕はもちろん、一日24時間の10分の1である、2時間40分は神さまに捧げる時間だといって、じっくりと祈りの時間をもっているそうです。

私自身も、これらをあらためて問われると心がチクチクと痛みます。でも、イエスさまに贖われた私たちですから、本来は命を罪のゆえに失っていた私たちですから、もともとなくなっていたものを神さまの憐れみによって得させていただいたものですから、この命、この時間、この体、そのものを神さまにお捧げしようではありませんか。

クリスマスは、神さまが私たちにもっとも重要なものを捧げて下さったことを記念する日であるのです。この記念する日を覚え、私たちも大事なものを神さまに捧げましょう。

最後に、博士たちは占星術の博士だとあります。

ユダヤの律法によれば、占いは死刑に値する行為であり、やってはならないことです。その占星術の博士がエルサレムに入ってくる。もしかしたら無知だったのかも知れない。でも博士ですし、東方は昔イスラエルの人々が捕囚として住んでいて地域ですから、ある程度はイスラエルに関する知識は持っていたでしょう。

その占星術の博士がエルサレムに入り、祭司や律法学者を前にするのですから、これは命がけの行為ではないでしょうか。

純粋に福音を信じ、神さまの言葉に従うには、肝心な時に命がけで従える強さを持つことが出来るのです。

神さまが私たちに大切な独り子を贈ってくださったことを特に覚えるこの時期に、私たちはもう一度、自分が神さまに何を捧げているのか見直して、お互いが最上のものを交換できる、喜びに満ち溢れたクリスマスを迎えましょう。