喬木教会礼拝説教                           2001年12月23日

飼い葉桶のメシア

聖書箇所 ルカによる福音書 2章1〜7節(新共同訳p.102,3

1そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。2これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。3人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。4ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。5身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。6ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、7初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

 

概略 ローマ皇帝による戸籍調査は二つの目的でなされていました。1つは課税額の査定。もう1つは強制兵役を行うためであったようです。しかし、ユダヤ人は兵役を免除されていたようで、戸籍調査は税金のためだけに行われたようです。

戸籍調査が行われた年代についてですが、14年ごとに行われていたようです。現在記録として残されているものでは、紀元前8世紀のものがありまして、そうなると、イエスさまがお生まれになったのも紀元前8年になるので、現在は2009年になるのかも知れませんね。実際にはイエスさまは紀元前4年頃と言われておりますが、正確なところはどうなのでしょうね?

何にせよ、実際に戸籍調査が行われ、人々は生まれ故郷に帰らなければならない状態があったことは、発見された資料から確かなことであったようです。ですから、ヨセフは許婚のマリアを連れて、ユダ族の土地であるベツレヘムへ移動しておりました。

 

ポイント1 神さまの言葉(預言)は必ずその通りになることを覚えましょう

前回、占星術の学者がヘロデのもとを訪れた時、律法学者やファリサイ派の人々はメシアの生まれる所は、旧約聖書の預言書に記されているユダの町ベツレヘムだ、と言いました。ミカ書5:1(P.1454)にこう書いてあります。

「エフラタのベツレヘムよ/お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために/イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。」

ベツレヘムという地でイスラエルを治める者が生まれる、とイエスさまが生まれる750年ほど前に預言として語られていたのです。

それでマリアという女性のもとに天使ガブリエルが受胎告知と言われる、メシアを生む知らせを伝えるのですが、そのマリアがどこに住んでいたのか、というとナザレという町です。

ナザレに住む女性にメシア到来の告知がされたのです。ナザレはベツレヘムより北120km程離れたところです。現在のように交通機関が発達していないので、ナザレの人がたまたまベツレヘムまで買物に行ったら、そこで赤ちゃんを産んでしまった、なんていう話はないようなところです。

そんな状況にあっても、神さまのおっしゃったことは、必ず成就するのです。どのようにして成就されたのでしょうか?当時の最高権力者を用いて成就されたのです。

私たちは日常の生活の中で、神さまの言葉はそうであっても、自分の家族には御言葉通用しない、とか会社や社会の中では通用しないとか、知らず知らずの内に不信仰に陥ってしまうことがないでしょうか?

神さまの預言は、「もしかしたらこうなるかも知れません」という意味ではありません。「こうなります」という言葉なのです。ですから、この世には終わりがあります。といわれれば、必ずその日が来るのです。神さまが人を裁くときが来る、と言われたら、必ずその時が来るのです。

メシアはベツレヘムで生まれる、と言われたら、必ずベツレヘムで生まれるのです。

神さまはその預言が成就するためには、異邦人であろうとも用いるお方です。たとえ教会に来られていない方であっても神さまのご計画のために用いられることが多々あるのです。その中で、私たちが気に止めていなければならないことは、神さまの約束を本当に信じつづけること。一切の疑いを持たぬことです。

このクリスマス、イエスさまが私たち人間のために人となり、地上に来て下さいました。それはなぜですか?私たち人間を救うためでした。一人も滅びないで、永遠の命を得るためでした。

このイエスさまを信じるならば、私たちが罪から解放されて、永遠の命を得るのです。イエスさまを信じて心に迎え入れるならば、私たちの心は愛で満たされ、この愛が私たちの生涯を全っとうするわけです。

このことを本当に信じるかどうか。それは私たちの選択です。

私たちの生涯にイエスさまが働いてくださるかどうか、それは私たちが選べるのです。聖書で語られていることが成就するためには、その時代の最高権力者でさえも用いられる神さまです。私たちがイエスさまを信じるならば、私たちの生活の中にでさえも、神さまは豊かに働いてくださることを心から信じましょう。

 

ポイント2 神の国は私たちの間に存在することを覚えましょう

ヨセフは、ベツレヘムに行く予定は全くなかったのでしょう。おそらくナザレに生まれ育ち、これからもナザレで生活をしていこうとしていた人物です。しかし、そのままナザレに留まると、神さまの預言が成就しなくなるので、時の権力者がベツレヘムへ行く道を備えました。それでヨセフは出かけるわけです。

その時に、聖書を見ると、ヨセフはもしかしたら、一人で出かけることができたのではないかなぁ、と思うのです。5節には「許婚のマリア」とあるからです。当時の許婚という状態は、対外的、人々に対しては、「夫」、「妻」と紹介しあうように、結婚している状態と変わりませんでしたが、法的にはまだ結婚していない状態であります。ですから、戸籍登録、というのであれば、まだ独身だからヨセフ一人でも、と思うわけです。

でも、ヨセフはマリアを連れて行きました。自分の子ではない子どもを身ごもっているマリアをです。いくら天使によって、聖霊によって身ごもった、と言っても、やはり男として複雑な思いではありませんか?結婚前から妊娠した妻の面倒を見て、遠い道のりを旅するのです。ですから、ヨセフはとても器量の大きな人だなぁ、と思わされます。

でもやはり、ヨセフが嫉妬にかられたり、複雑な思いにならなくて良い、というほど天使の語りかけ、聖霊の存在が明確であったのでしょう。

イエスさまは、「神の国は私たちの間にある」(ルカ17:21)といわれました。

ヨセフが自分のプライドや世間体を気にしていたのであれば、彼はマリアを置いて一人で出かけたかも知れません。でも、彼は自分の内にあるそういったものを主にお捧げして、神さまの働きがスムーズに進むように自分を低くしたのです。その結果、マリアはベツレヘムでイエスさまを生む、という預言の成就があったのです。

神の国が実現するにあたって、私たちがどうあらねばならないのか。それは、私たちの肉なる思い、自分中心な思いですが、それを主の前に投げ捨てることであります。

イエスさまは神の姿を捨てて、私たちの間に宿ってくださったのです。そのことを特に覚え、またイエスさまが再び来られることを喜ぼうとするこのクリスマス、私たちもイエスさまの前に自分を捧げ、そして神の国が私たちの間で実現するようにさせていただきましょう。

そのために、私たちはイエスさまに向い、心の扉を開いてください。そしてイエスさまをお迎えし、イエスさまに自分の主導権をお渡ししましょう。一人一人がそのようしてイエスさまをお迎えするのであれば、私たちの周りには神の国が徐々に徐々に広がってまいります。

ヨセフが自分を捧げました。マリアも自分を捧げました。その結果、イエスさまというメシアがこの地上に来られました。この二人の小さな献身が、この世界を変えるほどの大きな結果をもたらしたのです。

私たちも主に自分をプレゼントする、そんなクリスマスをお祝いしましょう。

 

ポイント3 本来いるべき場にメシアをお迎えしましょう

メシアはどこに生まれたと聖書に記されているのでしょうか?

詳しくは述べられておりませんが、家畜が使う飼い葉桶の中に寝かせられた、ということと、宿屋には彼らの居場所がなかった、ということから、馬小屋、家畜小屋で生まれたのだろうといわれております。

それでも、当時の宿屋は現在のように綺麗に整った建物であったわけではなく、ほとんどが馬小屋のようなものだったとも言われております。現在は、イエスさまがお生まれになったのは洞窟の中。においの立ち込める、風通しの良くない、そんな場所だといわれておりますね。

そして宿屋にはいる場所がなかった。と記されております。この所から言われることは、私たち人間の心の中には、私たちを解放し、喜びに満たして下さるお方をお迎えする場所がない、ということが語られている、ということです。

まさにその通りではありませんか?私たちは誰もが自由になりたい、と思っている。誰もがいつも喜んでいたいと思っている。でも、現実はその通りにはいかないものです。その中で、「自由」なんてなれるものではない、と自分で決め込んでしまうのです。現代のように不況で、暗いニュースばかりが飛び交う状況にあっては、「喜び」なんて浅はかなものだけが持っているものだ、なんて思い込むわけです。

また、クリスチャンであれば、神の言葉を優先させ、大切にした方が、結果的には素晴らしい将来が開かれる、とわかっていても、今はそれどころではないと言って、現実の問題を最優先させてしまう訳です。

私たちは、一体どこにイエスさまをお迎えいたしますか?頭の中ですか?そうであれば、人を批判したりする分には役に立つかも知れませんね。でも、それで生きる力は得られません。

私たちはイエスさまを何処にお迎えいたしますか?教会の中だけですか?そうであれば、週に一度、日曜日だけの礼拝をする「日曜クリスチャン」、又の名を(聖書の上に積もった誇りをフーっと息で吹き払い、ポンと叩いて教会にでかける)「フー・ポン・クリスチャン」になってしまいます。

これらは、「イエスさま、お泊めする場所がないので、まぁ私ならとてもそんな所に寝泊りは出来ないのですが、仕方ないのでこの家畜小屋、うっ臭い!!、ここにお泊り下さい。」と言っているのと同じことです。

私たちはイエスさまを心にお迎えするべきでしょう。だって、私たちの心の中ってどうですか?セルフ・イメージが低かったって、それでも居心地がいいものですよ。だから、自分は変わらなければいけないと思っていても変わりたくない、変われない、ということになるわけです。ですから、セルフ・イメージが高い人は自分の心の中は最高の状態ですよ。ホテルのVIPルームになっているのです。

そこにはイエスさまをお迎えせず、ホテルで言えば、掃除道具入れ、いや、もしかしたら生ゴミを捨てるようなゴミ箱に押しやっているのかも知れないのですよ。

イエスさまは、とても謙遜な方でした。そして私たちが傲慢で、プライドの高い存在であることを知っていて、それであえて私たちの下にたつために、本当に臭くて汚い家畜小屋に、お生まれになってくださったのです。

そのイエスさまが私たちのために十字架を背負い、私たちの罪を赦すために死んで下さったのです。そして今は、復活され、神の右の座におられるのです。そればかりか、私たちのもとに聖霊となって下ってきてくださり、今も戸を叩いている、と言われているではありませんか。もし私たちがイエスさまをお迎えするなら、お迎えするだけで、イエスさまは私たちの中に入って来てくださり、そして食事を共にしてくださるのです。

このクリスマス。私たちは毎年迎えているクリスマスですが、もう慣れきってしまって、またその話か、とは言わずに、本当にイエスさまをお迎えして、自分の生活がイエスさまによって変えられた、と言えるくらいに、自分をイエスさまにおささげしましょうよ。

私たちを本当に愛し、愛し抜かれた方が、飼い葉桶に寝かせられたのですよ。再び飼い葉桶に寝かせますか?そうではなく、私たちの心の王座にイエスさまをお迎えしましょう。