喬木教会礼拝説教
2002年1月13日
時のあるうちに
聖書箇所 ルカによる福音書 16章19〜31節(新共同訳p.141,2)
16:19「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。20この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、21その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。22やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。23そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。24そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』25しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。26そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』27金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。28わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』29しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』30金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』31アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」
今日はイエスさまの語られたたとえ話です。
金持ちと貧乏人です。このたとえ話は、お金に執着する人々(ファリサイ派)の人々に対して語られたものです。
日本においての考え方は、仏教的な思想がかなり強いと思います。そのため、死後の世界に対する考え方も輪廻転生という、死んでもまた別の存在となってこの世に生まれる、という考え方が成されます。その「新しい存在」になるにあたっては、現世でどれだけの善行を積んだか、によって良いものにも悪いものにもなり得るようです。
ですから、時間の考え方は円を描く訳です。十字の先端が曲がった「卍」は、その時間の流れを示すそうです。
では聖書の思想はどのようなものでしょうか。まず、時間は始めがあって終わりがあります。それは一直線です。物事には全て最初があるのと同じです。最初に神さまが世界を造られたのです。そしてやがて終わりがある。
では死んだ後はどうなるのでしょうか?死んだ後は、新しい存在に生まれ変わることはありません。神さまが愛しておられる私たち個人個人は、かけがえのない存在です。別の誰かに生まれ変わり、その人格が失われる、なんていうことはないのです。ですから、死んだ後は、永遠に神さまと共に楽園に住むか、又は神さまから離れて闇の世界に住むか、のどちらかのようです。
私が信仰を持つ前、死について考えたことがありました。「死んだ後はどうなるのだろう?」。私たちはどうなるのでしょう?わからないのです。どんなに考えてもわかりませんでした。小学生の時、悩んだあげく、「そうだ。近所でこの前亡くなったあのおじいちゃんに聞けばわかるかも!!」なんて思ってしまい、その亡くなったおじいちゃんに聞けるはずがないことに気付いた時には再びショックを受け、行き先のわからない不安にかられたことを思い出します。
それからは、死んだらそれまでだ。と思うようになりました。今が楽しければ良い。今が充実していれば良い。そう考えるようにしました。それで死後の世界については考えないようにしたのです。
それから数年経って聖書に出会い、イエスさまによって「永遠の命」という約束を頂きました。「永遠の命」です。そう聞いた時は「永遠?現在のような、生きている苦しみが永遠につきまとうのか?嫌だなぁ。別に俺は永遠に生きたい訳じゃないのに…」なんて考えました。
それからしばらくして、永遠の命も苦しいものではないことを何となく理解しました。でも相変らず、「永遠の命なぁ。そんなに時間があったら暇をもてあますだろうなぁ」なんて考えておりました。
こんなことを考えていた私は、ある時聖書を読んでいて、本当に大きな勘違いをしていることに気が付きました。
人間と言う存在は、もともとは永遠の神さまに造られた存在なのです。どういうことかというと、永遠の力を与えられて生かされている者なのです。ですから、本来は永遠に生きていて当然なのです。ところが、神から離れるという罪により「永遠」を失いました。そのため、人間につきまとう最大の問題である「死」に人は怯えるのです。
そんな私たちが永遠の命を与えられて生きるというのは、神さまから造られた本来の姿になって生きる、ということなのです。ですから、永遠なる神と共に生きることこそが、私たちが本当に生かされている、生きていることの喜びになるのです。
この点がクリアーにされていないと、たとえ今が何一つ不自由ない生活を送れる状態にあったとしても、心には虚無感を抱くようになるのです。そしてさらに、現状を見つめ、現状を面白おかしくしようとするために、神さまからより離れてしまい、心の充足を得られないようになってしまうのです。
もし私たちが将来に、何か大きな買物をしたい。現状では厳しいけれど、将来はこうなりたいと思ったら、今、何をしますか?例えば、今は収入が少なく、現在の貯金ではまだ無理だけど、将来は立派な家を建てたい、と思ったら。
今はできるだけ無駄遣いを避けてお金を貯めますね。遊びもがまんするかも知れない。そして将来の目標に向かって努力していくでしょう。
私たちが生きていて、今の世界だけ。死んだらそれでお終まい。死んだら別の人格を持って一からやり直し。というのであれば、私たちは現在、何か目標を持って必死に努力する必要がありますか?ないでしょう。
私たちにはこの世の生活を送った後、さらに永遠という時間が定められているのです。死後の世界がある、と聖書はそのことをはっきり示して下さっているのです。
現状の、数十年先の目標も必要ですが、その先の数百年、数千年、そして永遠をどう過ごすか、そのことも考えることの出来る視野を養いましょう。
今日のたとえ話で出てきた人物(主役)は二人です。金持ちと貧乏人ラザロです。たとえ話の中で名前があることはとても珍しいですが、この二人は私たちの両極端のあり方を示した二人です。
金持ちは「いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた」のです。今の生活に目を向け、その生活に満足し、今を楽しく生活していたのです。もう一方のラザロはというと、金持ちの「門前に横たわり、食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思い、犬にできものをなめ」られている存在です。
金持ちの着ている服は、当時の最高級の服です。一日の賃金が390円くらいだったと考えると、その服は29,000円から34,000円ほどのものだったそうです。そして週に一回でも肉は食べれることが出来れば幸せだ、という国にあって、毎日贅沢に宴会を催し、ご馳走を食べていました。また、当時はスプーンもフォークも箸もないので、手で食べるので、手を拭くナプキンが必要になるのですが、金持ちは厚切りのパンでその手を拭き、拭き終わったらそのパンは投げ捨てるのが常だったそうです。貧乏人のラザロは、そのパンでも食べたいと思い、金持ちの門前にいたわけです。
そのラザロは、パンでも食べれればまだ良かったのでしょう。食べる物もなく、衰弱しきっていたのでしょう。そのためできものが出来ます。そして当時の不浄な動物といわれていた野良犬が来て体をなめるのです。本来なら追い払うところが、力がないのでそれも出来ないでいるのです。
方や贅沢三昧、方や生きも絶え絶え。そんな状況です。で、人生それだけなら良いのですが、22節。急に話が死後の世界に移ります。そして、贅沢三昧の金持ちが陰府でさいなれ、焼かれ、渇き、苦しんでおります。もう一方のラザロは、アブラハムの傍らで宴会の席に着いているのです。
金持ちは、ラザロを遣わすように願います。でもそれは出来ない。そして25節。アブラハムから生前のことを話されます。
金持ちは、この世のことしか考えていなかった。そのために、神の律法をなおざりにし、今を楽しむことに必死だったわけです。将来の、死後の世界を考えなかったのです。
しかしラザロは、その名前が示すように「神はわが助け」と信じ歩んでいたのでしょう。そのため、天において慰められているのです。
現在、私たちは何を頼りにし、何を見て生きているでしょうか?この世の富。この世の人間関係。この世の仕事。それとも神の国。
間違えて欲しくないのは、この世にあって、禁欲的に生きろ、と言っているのではないということです。
この世の富や人間関係、仕事が悪いもの、罪である、というのではありません。それらのものを排斥するのであれば、それはこの世に住めないことになるからです。
イエスさまは全てのことにおいて、「神の国と神の義を求めなさい」といわれました。毎日何もしないで、ボーっと神の国と神の義って何だろうなぁなんて考えろ、と言っているのではありません。何をするにしても、そのことを通して神の国と神の義が現れるように、そのことを求めなさい、と言われているのです。ですから、仕事をするにしても、不正や怠惰に妥協していくのではなく、自分が忠実に、一生懸命働くことによって神の栄光を現そうとする意志。人間関係にしても、この世的な楽しみに流されていくだけのナアナアな関係ではなく、時には決別してでも人を正しい道に導こうとする断固とした態度、そして時には全ての者に仕えたキリストのように奴隷のようになること。それらを通して神の力を示すのです。
私たちがどこで、どういう態度を取るか。どういう決断をするか。そのことは、将来を見越して、神の栄光が現れるところで判断されていくべきでしょう。
そのような判断がされる時、神さまは間違いなく私たちの決断を祝福し、行う全てのことを最善に導いて下さるでしょう。
最後に、金持ちはラザロをよみがえらせ、今生きている兄弟たちにこの死後の世界のことを伝えるように願いました。しかし、アブラハムはモーセと預言者、すなわち聖書、教会が与えられていると述べました。
生きている段階で、これらのことに耳を傾けないのならば、いくら死人の中から誰かが甦ったとしても彼らは信じない。といわれたのです。
ちょっと冷たい、と思われるアブラハムの言葉に思えます。でも、それはそうだろうなぁと納得もさせられます。
神さまは常に私たちを最善に導いてくださいますが、無理に私たちを従わせようとはなさいません。あくまでも私たち個人の判断で、私たちが選ぶ通りの道を進ませてくださるのです。
その神さまが、私たちが神に造られた人間として本来のあり方を示そうとして、神であった独り子を世に遣わし、私たちに永遠の神の住まいに導こうとしてくださったのです。そのために聖書が紐解かれ、そして御子が十字架にかかり、死から復活したのです。
多くの人が信じられない、と言う出来事ですが、金持ちの要求が通り、死人の中から神の御子が復活したのです。
そして何を示しておりますか?私たちが間違いなく神の国に入れるよう、日々の歩みができるように導いてくれているのです。
先週の愛餐会の時には、それぞれの豊富を聞かせていただき、とても嬉しく思ったことが、聖書を読むことを頑張る、ということでした。
日々聖書によって道を示されなければ、私たちは道が分らないものであります。そしていつ私たちはこの人生に終わりを告げるのかも分らない存在です。死んだ後、後悔しないように、生かされているこの時を大事にし、日々御言葉に養われ、判断力をつけてまいりましょう。