喬木教会礼拝説教
2002年1月27日

主の僕

聖書箇所 ルカによる福音書 17章1〜10節(新共同訳p.142

 

先日、実家に帰り妹と接しました。この春、短大を卒業する妹です。彼女は今年成人式を迎えたばかりですが、彼女なりの考えを持っていて、彼女なりの価値観の中で生活をしておりました。

若い時は(自分も若いのですが)、視野を広げるため、様々な経験と学びが必要な時であり、より謙遜に人の意見に耳を傾けた方が良いと思うのですが、そうはならないものですね。特に今は情報が満ち溢れていますから、自分に都合の良い言葉ばかりに耳を傾け、自分の耳に快くない言葉には耳をふさぎ、より傲慢になるものです。

私たちは、実際は何十年と生きてきたものですが、信仰面においてはいかがでしょうか?新しく生まれ変わり、新しい人としての人生が始まりましたが、信仰者として何歳になりますか?幼児期ですか?青年期ですか?壮年期ですか?

聖書が示す、大人となった信仰者の姿がどのようなものであるのかを今日は見てまいりましょう。

 

イエスさまはこの世の価値観に捕らわれているファリサイ派たちに語った後、今度は弟子たちに向けて語りはじめました。その内容は徹底して神の国の基準に基づいた内容であります。

どのようなことを言われているでしょうか?大きく分けて三つにしぼり、見て参りましょう。

 

1 1〜4 「他人に対する配慮。赦しの人となる」

17:1 イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。2そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。3あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。4一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」

若さの持つ特徴はどのようなものでしょうか。

若いとそれだけ力があります。体力があります。そしてそこから来る「自信」があるのです。とても素晴らしいことではないですか。力や体力を失い、そのため気力も失う大人よりもとても魅力的ですよね。若さは本当にいつまででも持っていたいものであります。

他の特徴として、ある人は「若者と馬鹿者は同じだ」と言いました。若い私はムッとしましたが、それでも納得してしまいました。どんな特徴かというと、誇大妄想を抱いたり、傲慢になったり、自己中心に物事を考えるのです。そして自己正当化ばかりするのです。ここまで言うと私が「若さ」に対して恨みでも持っているのでは、と思う方もあるかも知れませんね。決してそんなことはないですよ。ただ、自分を客観的に見ただけですから。

それでも、何にでも段階があるように、若い時には傲慢になることも、自己中心になることも必要だと思うのです。その中で自分の思い通りに行かず、自分の自信が砕かれて、立派な大人に成長していくのですから。

私たちはここで覚えておかなければならないでしょう。信仰を持った者でも、このような若者の時代を通らなければならないことを。たとえ幾つになっても、信仰を持ち始めた時は赤ちゃんです。そして成長していき、若者になり、やがて大人になり、そして長老になるのです。

信仰者として若いとどうなるのか。信仰を持ったとしても自己中心的に物事を考えます。そして神さまを自分の都合の良いように用いようとしたりします。そして傲慢にもなりますね。自分は正しい、と。

でもやはりそれは、大人の信仰者になる大事な段階です。大人になるためには、我が儘な時期も経験するものなのです。だから先に救われた者に、若い人々に対する接し方をイエスさまは教えておられます。

「悔改めれば、赦してやりなさい。何度罪を犯しても、その度に悔改めるなら赦しなさいよ」と言われました。何度でもですよ。聖書には回数で7回とありますが、当時のユダヤ教では3回人を赦したら完全な人間だ、と言われたそうです。でも聖書はその倍よりも一個多く数を定めているのです。ようするに、何回でも、悔改めるならば全て赦してあげなさい、という意味でしょう。赦される、という経験を通して人は成長していくものなのです。

だから、わがままでも良い。間違っても良い。イエスさまはその全てを十字架の贖い、という形で全て赦して下さっているのです。

でも、だからと言っていつもでもそのままで良いか、というとそうではないことがおわかりでしょう。

イエスさまはこの世にあって「躓きはさけられない」と言われました。それは仕方ないのです。でも、人を罪に導くことは、罪として決して忘れられることがないといわれるのです。イエスさまからこれだけ厳しく言われると、本当に身が引き締まる思いがします。

信仰者として新しく生まれ変わったのですから、若者として、自分を中心に生活することは当然重要で必要な時間です。でも、いつまでも若者みたいな、赤ちゃんみたいな状態であったならば、いつ人を罪の罠にはめてしまうかわかったものではありません。

散々わがままを通して来た私たちを、無条件の愛で赦して下さった神さまです。この愛の内にあって、わがままな信仰者から、人を建てあげる、大人のクリスチャンへと成長させていただきましょう。

 

2 5〜6 「この世の基準に捕らわれない大きな信頼を持つ」

5使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、6主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。

人を責めることから、人を赦し、人を建てあげる者へと変えられた私たちの信仰にはどのような変化が生じるでしょうか。

簡単に言うと、この世の基準、考え方が排除されるのです。

イエスさまは信仰があれば、桑の木を海に移すことだって出来る!!と言われました。その言葉を聞いて、身体的のみで大人になっている方は「何をバカげたことを」とか、「これはもっと深い意味があって、ここで本当に言いたいことは...」とか言いって、実際にはそんなことは起こらない、と信じきってしまうのです。

でも、信仰的に大人になっていたらどう考えるでしょう。「桑の木を海に移すことに何の意味があるんだろう」と思いながらでも、「神にはそれが出来る!!」と疑うことなく信じることが出来るのです。

イエスさまはからし種一粒の信仰があれば、と言われたのです。からし種がどのくらいの大きさかご存知ですか?本当に小さいですよ。この「・」くらいです。いくら大きくても、種が死んでいたら、もう芽をだすことは出来ないでしょう。また種を持ったつもりでも、ただの砂を蒔いていたのではどんなに待っても芽はでません。

この「・」くらいの信仰と言われても、確かに種であり、確かに生きていている信仰であれば、一般的には考えられないような信仰による奇跡を見る、起こすことが出来る、と言われたのです。

私たちは本当の意味の信仰を持っておりますか?信仰がいつしか「神学」や「伝統」、「経験」とすり変わったりしていませんか?

この信仰があれば、若者のように理屈をゴタゴタ並べずに済むのですよ。正真正銘の本当の信仰を持って、どのような問題の中でも、ド〜ンと構えていましょう。

 

3 7〜10「仕える喜びに満足する」

7あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。8むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。9命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。10あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」

最後に主は、神さまに仕える者がどのような者であるかを示して下さいました。

世の中にはたくさんのご利益宗教がありますね。修行を積んだら、お祈りをしたら、お守りをもっていたら、お参りをしたら、献金をしたら等、自分が何かをしたことにたいしての報いを求めるのです。

クリスチャンはそうではないのです。まぁ、若い時は自分の行いが正当な評価を受けているかどうか、気になるところですが、成長したクリスチャンは、神さまに仕えることがどんなことであるかをわきまえ知るのです。

若い時には、自分のやったことに対して、当然の報いを受けようとします。そして知らないうちに、人に求めてばかりで、自分は動かない、なんていう状態にもなってしまいますよね。でも、大人は違うというのです。

神に仕え、人に仕え、そして言うことは「自分はやるべきことをやったに過ぎません」だって。

そんな人になれますか?何か人間性を失っているのではないか、と私は思ってしまうのですが、いるそうですよ。そういうお方が。

イエスさまは私たちのために、私たちが犯した過ちのために、ムチで打たれました。そして唾をかけられ、殴られ、茨の冠をかぶせられました。そんなことされたら体は傷だらけ。普通の人なら相当の痛みを覚えるでしょう。それでも、自分の過ちのために罰として叩かれるなら、気持ち的にあきらめもつくでしょう。でも、イエスさまは何にも悪いことはされなかった。それなのに、私たちの過ちのために鞭打たれ、殴られ、侮辱されるのです。身体的、精神的に本当に大きな痛みを覚えたことでしょう。

さらに、イエスさまはボロボロの体を引きずって、重たい十字架を担がせられ、人々の冷ややかな目線の中、丘にのぼり、自分の腕と足にぶっとい釘を打たれ、十字架に掛けられたのです。その苦しみは私たちには想像も出来ないでしょ。本当に大きな痛みですよ。そして私たちの罪の贖いとなって下さったのです。

イエスさまは、徹底して私たちに仕えました。私たちの負債も人知れず、全て背負ってくださいました。私たちが支払わねばならなかったはずの大きな負債をご自身が支払って下さったのです。

で、イエスさまから、「私が立て替えた分、早く払ってくれないか」と言われましたか?言われません。でも、「支払えとは言わないから、せめて感謝くらいしてくれよ」と言われましたか?言われません。では、「せめて私がお前のために十字架にかかったんだから、その事実くらい認めろよ」と言われましたか?言われません。

イエスさまは、私たちがイエスさまの十字架を自分から見るまで、自分から認めるまで、自分から何かしようとするまで、決して何も言わずに、私たちに何も要求することなく、ただじっと待って、私たちを見守っていて下さったのです。

本来罪人でしかなかった私たちが、イエスさまのこの大きな犠牲のゆえに今生かされ、恵みの中に置かせていただいているのに、神さまに対して自分の権利を主張出来ますか?そんな無神経なこと出来ますか?

神さまは、私たちが仕える以上に私たちに仕えて下さっていますよ。

私たちも幼い時は、仕えられることしか知らなかった。でも今は、イエスさまのようになりたい。イエスさまのように出来る、と信仰によって知っているではありませんか。

主の僕として、自分の権利は主に仕えることにあることを覚え、喜びの内に、「やるべきことをやったに過ぎない」という歩みをさせていただきましょう。