喬木教会礼拝説教
2002年2月3日

恵みを受けて

聖書箇所 ルカによる福音書 17章11〜19節(新共同訳p.142,3

17:11 イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。12ある村に入ると、らい病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、13声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。14イエスはらい病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。15その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。16そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。17そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。18この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」19それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

 

イエスさまがいよいよエルサレムへ向けて旅を開始したところ。サマリヤを通ったのかどうかは不明。

当時、「ライ病」の者は普通の人々と暮らすことが出来ず、汚れた存在として差別を受けていた。そのため、村はずれに住むことが多かった。

ユダヤ人はサマリヤ人を差別していたが、同じ苦しみの中にあり、ここではサマリヤ人もユダヤ人も一緒に過ごしていた様子。彼らがイエスさまに救いを求め、そして癒されたのが今日の記事。

 

イエスさまが旅をして、自分の近くを通っていると知った十人のライ病(今のハンセン病)を患った人々が、自分の救いを求めて主に叫び求めている。その十人の中にはユダヤ人もいれば、サマリヤ人もいた。

教会において、様々な証しを聞く機会があるが、本当に大きな働きをしている人々の証しを聞く時に、いくつかの共通点があることに気付く。

1つは、神さまに導きかれた時、となれば直ぐに行動していること。現在地区青年会では「讃美の回復」という本を用いて学びをしているが、著者が会堂を建てるためにいただいたビジョンを持った時、この世的には屁理屈と思われる内容のことであっても、そのビジョンをもとに直ぐに行動を開始した。この世的には屁理屈と思われる内容ですから何度も挫けそうになるのですが、それでも行動し続けた。その結果、彼は無料で会堂のための土地を手に入れた。信じたらすぐに行動であった。

2つめは、全ての人が御言葉に導かれている、ということだ。ライ病人は、現在は癒されていない。でも、イエスさまから「祭司の所に行って、体を見せなさい」と言われた。その言葉の通りに、彼らは直ぐに移動し始めた。なぜ祭司のもとに行くのか。それはライ病が治った時は、祭司の確認を受けるよう律法で命じられているからである。であるから、ライ病のまま、祭司の所に行っても空しい思いをするばかりである。そでも、イエスさまの言葉、ということで彼らは実際に治っている者のように行動をしたのだ。

私たちは毎日、何気なく生きているようですが、この日も神さまによって生かされている者だ。どうせ生きているのなら、神さまからの恵みを十分に受けていることの実感と、喜びの中で過ごしたいものではないか。そのためにも、日々聖書の御言葉を頂き、主の導きの中で、主を信頼した行動を取るものであろう

 

私は元来いたずらが好きなものだ。人を驚かせ、冷や汗をかかせることを趣味としているところもある。悪い癖だ。そのため、人を驚すために使える!!と思った品は大事にしている。

そのため、机の中には未だ封を開けていない爆竹やカンシャク球があり、自分の宝物(ガラクタ)を入れてある箱の中にはゴムのついたY字のパチンコやら、なんやらかんやらと入っている。

しかし、ところが、神学生になり、牧師になると、今までのようないたずらが出来なくなる。立場が人を造る、とも言われるが、立場により自粛する傾向が強くなった。そのため、火薬は湿気てしまい、宝物を入れた箱は妻の母より「ガラクタ」と書かれたダンボールの中に入れられ、物置の奥深くに眠ってしまった。

私にとっての宝物は、有意義に使えば、多くの人を驚かせ、怒らせ、はたから見れば愉快な光景を作り出すことの出来るものだが、使い切る前に無意味な物として片付けられてしまったのだ。

私のガラクタと、御言葉を同列に置くことは出来ないが、主から新しい命を頂き、主の僕として生きている私たちにとって、御言葉はただの文字、ただの文ではないであろう。それは神さまからの語りかけられた言葉であり、まさに私たちにとっての宝物ではないか?

これを用いることにより、人を驚かせ、喜びに満たし、大いなる神さまの栄光を現せるのではないか。

御言葉は信じ、実行してこそ、その力を最大限に発揮し、私たちの内にも力を与えるもの。この世の宝、私の持つガラクタは持ち腐れしても構わないが、御言葉だけは輝きを失わないよう、絶えず心がけたい

 

私たちが御言葉をどのように用いていくのか。それは人によって異なり、また様々な方法があるため、一つ一つ詳しく見ていくことが出来ないが、今日の聖書箇所から言われていることは、「神を讃美すること」である。

人は本当に勝手なもので、自分のしてあげたことはいつまでも覚えているものだが、自分がしてもらったことは簡単に忘れてしまうものだ。そしてそれは神さまに対しても同じである。

私たちが生きるために、神さまの側で一体どれほどの犠牲が払われたことか、真剣に考えることがあるだろうか。人となったイエスさまが十字架上で血を流し、苦しまれたのだ。

旧約の時代、人は自分が犯した罪のために羊などをささげた。「捧げた」と言うと簡単に聞こえるかも知れないが、そこには血が流されるのだ。自分がかわいがって育ててきた動物に刃物を突き立て、殺すのだ。その血を祭司がとって、私たちのために祈ってくれた。

自分自身が、動物を殺すことを想像してほしい。簡単に出来ることかどうか。自分の犯した罪のために、動物であれ、その血を流さなければならないとなれば、私たちは自分の弱さに対して簡単に妥協するようなことはなくなってくるのではないだろうか。

しかし現在は、偉大なる神の御子が十字架につき、私たちの命を贖って下さった。あまりにも偉大すぎ、私たちはその現実を忘れてしまってはいないだろうか。私たちが生きるために、神の御子が血を流し、その命を捨てて下さった。それは私たちが御子に刃物をつきたて、その腹をえぐったのと同じことである。

唯一の神は、そのようにして御子を私たちに差し出してくださり、その結果、私たちは命を得たのだ。この神に対する感謝が、常に私たちの内に満ち溢れているだろうか。満ち溢れていれば、その思いは讃美となって出てこないだろうか。その讃美は私たちを成熟した信仰へと導かないだろうか。

 

最後に主は「あなたの信仰があなたを救った」と言われた。

私たちの信仰が私たちを救うのだ。この事実をしっかりと受け止めていたい。

もし私たちは、現状に失望し、人に失望し、憶測で人の欠点ばかり気にしているのであれば、いつのまにか私たちの信仰は「失望すること。不平不満を垂れること」にすれ違ってしまう。こうなると、自分自身を救う信仰が消されてしまうのだ。

何があっても忘れてはならないことは、神が私たちのために大きな犠牲を払ってくださり、そのお陰で「私は救われた」という思いだ。神に救われたことを感謝し、讃美し続けるのであれば、私たちは現状に決して意気消沈させられることがあっても、失望することはない。憶測で様々な不平不満を垂れることよりも、信仰による祈りに心が向く。

私たちは自分の持つ信仰で、神さまからの恵みの大きさを知り、感謝の念を持つことが出来るようになる。

恵みを受けた者として、讃美に満ち溢れた歩みをさせていただこう。