「主にあって一つ」 コリント10-17
「一つの思いになること」「一致すること」このことが私たちにとりましてなんとむつかしいことでしょうか。一番分かり合えるようで分かり合えず、一致できないのが残念ながら家族であったり親戚であったりすることが多いのではないでしょうか。自分自身が育ってきた家族を振り返ってみましても、どうして親は私の気持ちをわかってくれないのかと家族を窮屈に思ったり、どうせ、まただめだといわれるからこのことは内緒にしておこう、自分の気持ちをできるだけ表さないようにしようとしていたら、親からあなたは何を考えているのかちっともわからないと怒られたり。日頃からのお互いの心が寄り添い一つになることが無いので何かことが起こった時にはその傷口がひどくなっていきます。また、学生の頃友人と今度のテストは頑張ろうと教えあったりして助け合いながら一緒に勉強します。テストという同じ目標に向かっているまではいいのですが、そのテスト結果がでると、必ず結果の悪かった方の心が穏やかではいられないのです。仕事でもそうではないでしょうか。同じ目標を目指して必死になってやっても、相手だけが昇進したらその心は一致できなくなってしまいます。同じ状況、境遇では共感しあえても、相手が自分よりいい状態になるともう思いが一致しなくなるのが私たち人間です。
今朝の聖書箇所でも状況は異なるものの、どうやらコリント教会でも一致できずに困っていたようであります。11節「・・・」とあります。クロエ家の人々がその様子をパウロに伝えたのであります。ここから少なくとも、コリントの教会が4つに分かれていた、4つのグループに分派されていたようであります。
12節以下「・・・」
@ パウロ派・・・非常に積極的で伝道一筋。少々神経質な律法家タイプ
A アポロ派・・・雄弁で、哲学者的なタイプ。大説教家
B ケファ派・・・ イエス様の弟子として3年間ともに歩んだ、ケファこそが正しい。
C キリスト派・・・自分たちこそが正しいクリスチャン
ここで4つに分かれていたことの何が問題であるかと言うと、それぞれの派が間違った教えに傾いていたというわけではなく、キリストに仕えることをわすれ、自分たちの好む指導者に仕えていたことでした。教会の中で信仰のよりどころを神に置くのではなく、人間的な魅力においていたことです。いかにすばらしい指導者であっても、神ではなく人に目を向け拠り所にするならば、それは非常に危険であり愚かなことであります。なぜなら指導者の人間的な魅力のとりこになり、本来見るべき主を見えなくするからです。
パウロは「パウロにつく」というパウロ派の愚かさを例にしているのであります。
13節「・・・」あなた方は、どうしてそんなにパウロを強調するのですか。あなた方は、「パウロが人間の罪の身代わりに十字架についたとでもいうのですか。」「パウロの名による洗礼をうけたとでもいうのですか。」そんなことがあるはずありません。あなたがたの罪の身代わりに十字架にかかってくださったのはただお一人神の御子イエス様ではないですか。そして、父と子と聖霊の名によるバプテスマを受けたのではないですか。」このことが重要であって誰が洗礼を施したか、洗礼式の執行者が誰かなどは全然重要なことではないのです。あなたクリスポとガイオ以外にコリントの教会の人火とに洗礼を授けなかったことを神に感謝していますといっているのであります。普通、洗礼者はひとりでも多く与えられたい、救われる魂がひとりでも多く与えられたいと伝道者であればそのように思うはずです。しかし、パウロは、自分が洗礼をさずけたことで、パウロ派が優位になったりするのは御心にそわないことであるし、本当にあり方迷惑なことだったのです。
さらに17節で「・・・」と言っています。本来ならば、伝道・福音を告げ知らせることとバプテスマは切り離すことが出来ないものです。マタイ28:19-20「あなたがたは行ってすべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け、あなた方に命じておいたことをすべて守るように教えなさい」と言われています。福音伝達とバプテスマはセットです。それにも関わらず、パウロはバプテスマを授けるためではなく、あえて自分は福音を述べ伝えるために遣わされたというのであります。パウロ派を例にあげて書かれていますが、当時の誰によってバプテスマを施されたかということに非常にこだわり、洗礼の後、どのグループに属するかが決められていたのです。
どうして、このような分派がおこるのでしょうか。その原因は、やはり高慢であります。イエス様の十字架を思う時私たちはどのような気持ちになるでしょうか。JCで歌う讃美に「イエス様ごめんなさい。イエス様ありがとう」を繰り返す讃美があります。私たちが十字架を思う時この「イエス様ごめんなさい。ありがとう。」という悔い改めと感謝で一杯になるのではないでしょうか。それなのに、十字架の尊さがどこかに追いやられ、キリストに従順になるどころか、どの指導者につくか、その指導者が正しく、有利かなどと考えてしまうのです。イエス様の十字架が曲げられてしまっています。
パウロは、コリント教会のこの現状をどのように解決しようとしているのでしょうか。
それが今日のポイントであります。パウロが分派をイエス様の十字架と洗礼の恵みによって解決しようと導いています。私たちに、洗礼とはどういうものなのか。洗礼によって人は誰と結びあわされるのかもう一度考えるよう勧めています。洗礼によって、人はキリストと結び合わされるのです。そして、キリストの十字架を自分のものとするのです。そしてTコリント12:27「あなたがたはキリストの体であり、また一人一人はその部分です。」といわれているように、バプテスマはキリストの体である教会の一部とされることです。こんなにすばらしいバプテスマのはずなのに、教会という体の一部分を担っている一人一人のはずなのに、その体を分割してしまうような分派はいいはずがありません。パウロは、だれにバプテスマをさずけられたかということで分派をさらにつくるのではなく、バプテスマは人がキリストと結びあわされることであり、そのことにより罪が許され、そして、教会という一つの体に属するようになるという素晴らしいことであるバプテスマこそ主にあって一つにされるものであることをコリントの教会の人々に思い起こさせているのであります。主にあって一つとなるバプテスマの素晴らしさを思い起こすことこれが解決の第一歩です。
さらに、10節に目を向けたいと思います。「・・・」これがもう一つの解決策です。この10節から当時のコリント教会の状況をパウロは仲たがいしていて、固く結ばれていない状態と見ています。ここで、注目したい言葉が2つあります。
一つは「仲たがい」という言葉です。これはもともと言語でという「衣服のほころび」を意味します。つまり教会がほころんでいるということです。
もう一つは、「固く結び合いなさい」という言葉ですが、この言葉は原語で、「脱臼(骨の関節がはずれている状態)している状態を元通りにする時に使う言葉なのであります。
つまりパウロは、コリントの教会がグループを作り互いに批判しあっていて、悲しい状態、心が痛む状態であり、ほころんでみっともない、脱臼して力が入らない状態、それは教会がほころんでいる状態であってダメな状態ではない。ほころびは縫い合わせれば何の問題もないとみているのです。また、教会が堅く結び合わされず、まるで脱臼しているかの状態である。しかし、脱臼も致命的なことではなく、骨の関節がつながれば何の問題もなくなると状況を肯定的にみているのです。ですから、キリストの十字架の下で、おのおのが与えられた賜物を、また違いを認め合い、受入れあうならば、ほころびは修繕され、脱臼も直り、分派が無くなり、教会がキリストの体として一つになるというのです。
10節
「勝手なことを言わず」自分が正しいと主張しない。神を第一にし、自分を絶対化しない。
「仲たがいせず」十字架の下に立って相手の違いを受容する
「心を一つにし、思いを一つにして」主にあって心、思いを一つにする。「思い」という言葉には「目的」という意味が込められています。教会にある共通の目的、それは「福音の前進」です。すべての人が救われるよう祈り福音を伝えることに心を一つにすることが勧められています。
いままで分散していたものが、同じ思い目標に向かって進むことができるならなんと力強いことでしょう。主の業が力強く前進します。
喬木教会には、コリント教会のような分派(グループ)はありませんが。教会が一致する上で非常に重要なことをこのコリント書は教えてくれています。洗礼(バプテスマ)の意味をいつも明確にして信仰生活を送ること、また小さなほころびや脱臼したような状態が起こったときでも主の十字架の下で修復していくこと、傷口が広がらないように、小さなことでも一つ一つ主の十字架の解決を頂いていくことを教えられます。
新しい1週間がはじまりました。教会の中でもまた、私たちの家庭の中でも、職場におきましても、人間が集まるところには必ず争いが起きます。主のバプテスマ、主の十字架を思い今週一週間勝利の歩みをさせていただきましょう。