喬木教会説教
2002年3月3日

真の悔改め      ルカ18:9〜14

18:9 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。10「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。11ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。12わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』13ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』14言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

 

ファリサイ派と呼ばれる人々は、聖書の言葉を重んじており、とても信仰深い人々でした。しかし、イエスさまの話の中では(実際にそうだったのでしょうが)、うわべだけをとりつくろい、中身には信仰が存在していない、肩書きや評判だけを気にしている、そんな人物として描かれております。

徴税人と呼ばれる人々は、ローマの権力の下にあって、同じ民族からローマ帝国のために税金を取り立てる人のことです。イスラエルが他国に支配されていることを快く思わないユダヤ人にとって、同じユダヤ人がローマのために働いていることは我慢できないことでした。さらに、この徴税人は、税金を偽ってユダヤ人に請求し、上乗せした金額を自分の懐にいれているのです。人々から売国奴、盗人、と罵られるのが徴税人でした。

この二人が今日のたとえ話の登場人物です。

 

二人が神殿で祈ったということです。ファリサイ派は心の中で祈った、とありますが、神さまは声に出さずに祈った祈りにも耳を傾けていて下さるのですから感謝ですね。では、ファリサイ派はどのように祈ったのでしょうか。

『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。12わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』

彼は何と素晴らしい人ではないでしょうか!! 律法を忠実に守り、自制心が強く、神さまからの戒めをとても大切にしておりました。

続いて徴税人はどう祈ったのでしょうか。

『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』

短い祈りです。何の徳もありません。彼は人に迷惑をかけ、神さまの戒めを大切にせず、好き勝手に生きていました。ハッと我に返って自分の行いを見てみると、もう神さまの前に、何も言うことが出来ないのです。「私を憐れんで下さい」という言葉だけが、かろうじて出てくるのでした。

 

私たちの日常生活の基準はどうなっているでしょうか?

現在は不正行為が暴かれて、社会では立派だと言われている人々が記者会見等で頭を下げているシーンをよく見ます。そして一度不正が暴かれて、信用をなくすと、もう浮かび上がることが出来ないのが現実です。

どんな人々が感心され、評価を得ていたでしょう?

まさに、ファリサイ派のように祈れる人々ではなかったでしょうか。

 

しかし、ファリサイ派と徴税人と、二人の人が祈り、どちらが神さまの前に義(ただ)しいとされて家に帰ったのでしょうか?14節を見ると、それは徴税人であったことがわかります。

 

では神さまは、散々好きなことをやって生きてきた人を義として下さり、世の中で立派に責任を負い、ケジメをつけてきた人々を退けられるのでしょうか?

決してそうではありません。大事なことは14節の最後の部分です。

 「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

 

もう一度、自分たちの社会、日常生活の常識、基準を考えてみましょう。

おおまかなことでは、正しいこと、賞賛されること、価値あることは基準がしっかりとしていて、わかると思います。でも、こと細かな点についてはどうでしょうか。人によって、地域によってその基準は曖昧な部分があったりするものです。

人が作り出したもので、完璧なものは存在しないのです。

律法は神さまによって与えられた神の基準ではあるのですが、ファリサイ派が大切にしていたものは、神さまの御心、神の基準ではなく、神さまが与えて下さった御言葉を人間が律法化したものであり、極端に言えば、人が作り出したものであります。

人が作り出したもので完璧なものがないはずなのに、彼はその律法を完璧と信じ、それを守っていたのです。

完璧でないものを完璧とした時に、どうなるでしょう?歪が生じます。その歪が心に傲慢さを生み出し、罪を生み出すのです。

 

私たちに与えられた生き方とは、神さまの前に謙遜にへりくだること。そのことを促すのが、神さまが私たちに与えて下さった律法でありました。

神さまの前に謙遜になる時に、たとえ私たちが当時の徴税人のように大きな罪は犯していなくとも、神さまの前には自分が罪人であることがはっきりとわかります。

その時、私たちはたとえこの社会で立派なことをなしてきていたとしても、「主よ、罪人を憐れんで下さい」という言葉が出てきてしまうものであります。

 

そして主なる神は、謙遜にへりくだる魂を決して軽んじることはなさいません!!

私たちのこの祈りこそ、神の前に喜ばれるのです。

なぜでしょう?

私たちが謙遜になって、そこでイエスさまの十字架がとても大きな意味をもってくるからです。

 

神さまは、罪人でしかなかった私たちを救うために、イエスさま、神さまの独り子をこの地上にお遣わしになりました。そして、私たちの罪のための報いを、イエスさまが私たちに代わって背負わせ、十字架につくようになさったのです。

現在、私たちは、イエスさまが、「自分の罪のために十字架にかかってくださった。このイエスさまによる罪の贖い、赦しを信じる時に自分の罪が赦される」と信じる時に、私たちの罪は赦され、自由な者となるのです。

 

この救いをいただくには、神さまの前に謙遜にならざるを得ません。又、謙遜になるならば、この救いが自然と自分のものになるのです。

 

私たちはこの社会で、いつの間にか、イエスさまの十字架を忘れ、自分の正しさを主張することに一生懸命になってしまってはいないでしょうか。

 

神さまの前に謙遜になる者にこそ、神さまの義、平安、喜びが与えられることを覚えましょう。

イエスさまは、私たちの傲慢な心のために、そこから生じる様々な罪のために、十字架について下さったのです。