喬木教会説教
2002年3月10日
神の国を受け入れる ルカ18:15〜17
15イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った。16しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。17はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」
イエスさまは旅をしながら、人々に神の国について教えていました。イエスさまがいた国は、聖書によく親しんだ国でもありますから、人々は神の国について、知識を持っているはずでした。しかし、イエスさまが語られることがとても新鮮に聞こえ、それでいて、とても気持ちが楽になれる内容なのです。人々は驚きと共に、喜んでイエスさまを歓迎しました。
イエスさまが語った内容はどのようなものであったでしょうか?
それは神さまの正しい姿でありました。その姿を聞いて人々はとても安心しているのです。
では、どのような神さまを人々は想像していたのでしょう?
それは、人に「律法」という掟を与え、律法を守れない者は切り捨てる。というようなイメージであったのではないかと思います。
しかし神さまは人を切り捨てるようなお方ではありません。それどころか、失った一人の人でさえも必死に探しに行かれるようなお方です。
厳しく審査するお方と思っていた神さまが、イエスさまによって実は「愛に満ち溢れ、私たちの全てを包み込んで下さるお方」である、と人々は知ったのであります。だから、皆喜んでイエスさまの所に行き、そして神さまの話しを聞きました。
そんなイエスさまのもとに、生まれたばかりの子どもを抱いた婦人たちがやってきました。当時は子どもが生まれると、高名なラビ(先生)の所に行って、子どもの祝福を祈ってもらうのが習慣でありました。だから、「素晴らしい神さまの祝福を頂きたい」。「神さまから遣わされたイエスさまに手を置いて祈ってもらいたい」。「この子が神さまを愛して育っていけるようにお祈りしてもらいたい」。というような思いがあったのではないでしょうか。
ところが、彼女たちがイエスさまのもとに行こうとすると、それを拒む者たちが登場しました。誰でしょう?
イエスさまのもとで、神さまの話しを良く聞き、神の国についても普通の人々よりかは色々と知っている人たち、イエスさまの弟子たちでした。
この弟子たちは、子どもをイエスさまのもとに連れて来ようとしている人々を見て、「叱った」とあります。
愛である神さまのはずなのに、子どもを連れて行くと叱られた。親御さんの気持ちはどうだったでしょう?
高名な、普通のラビの所に行けば、普通に手を置いて祈ってくれるのに、普段素晴らしいことを語るイエスさまの所に行くと、それがそうさせてもらえない。
「イエスさまの語られることは嘘なのか!?」。「子どもは神の愛を受けることは出来ないのか!?」。親御さんはイエスさまに対して不信感を抱いたのではないでしょうか。
また、当時の状況として、昔の日本でもそうでしたが、イスラエルでも、女性や子どもは人数に数えられないほど、軽んじられる傾向にあったのです。ですから、男性が一番であり、次に女性でしょうか、そして子ども、というような地位の順序みたいなものがあったのです。
ですから、イエスさまが人々に教えておられる。そんな時に子どもがその場を妨げるなんて、とんでもない話だ!!と普通は考えてしまうのでしょう。
また、イエスさまはこの時、十字架の死に向かって歩んでおりましたから、その緊張感が弟子たちにも伝わっていたのかもしれません。そのため、弟子たちは弟子たちなりの配慮として、子どもたちによって先生を煩わせることはしたくない、と考えたのかも知れません。
とにかく、弟子たちは子どもを連れてこようとした、婦人方を叱ったのです。それが正しいことだと信じて叱ったのでしょう。
その時の状況や一般常識によれば、弟子たちの行動も決して異常ではありません。当たり前のことであります。
今でも教会によっては、礼拝中に子どもが騒いでいたら会堂の外に追い出そうとするでしょう。中には子どもが騒ぐ前から、「子どもは騒ぐものだから」と言って会堂に入れない教会もあると聞いております。
弟子たちはこれと同じことをしたわけですよ。
誰もが当然のこと、と思ったと思いますよ。厳かな雰囲気を壊すものをその場から取り除いたのですから。
それを変だ、と思ったのはイエスさまの教えを受けていて、子を持つ親くらいなのでしょう。
でも、イエスさまはその弟子たちに対してどうなされたでしょう。
この弟子たちを戒めました。子ども達を退けるな、と言われたのです。そして二つの命令をなさいました。
一つは、「子どもを来させなさい」です。神さまの前に子どもは連れて来るものだ、と言われました。
最近は、子どもの教育において、子どもの意志を尊重し、子どもの選択に任せる、という考えが強くなっているのではないかと思います。ですから、クリスチャンの親であっても、子どもに信仰を押し付けたくない、と考える人がいるわけです。大きくなってから自分で決めれば良い、と。
しかし、イエスさまは「子どもを私のもとに連れて来なさい。なぜなら、神の国はこのような者のものだからである」と言われるのです。神の国は、子どものような者のものだ、と言われました。であるならば、その子どもたちを神の国に連れて行かない、自分で行けるようになるまで放っておくというのは、神さまの命令に背いていることになるのであります。
確かに旧約聖書を見ると、子どもは8日目に割礼を受け、イスラエル民族として教育されます。そして申命記などを見ましても、律法の中で、神の戒めを絶えず子どもに教えることが命令されています。
子どもと接する時に、私たちは子どもを自分の所有物のように、自分の気分によって教育するのではなく、また自分たちに歩むべき道を選ばせるのではなく、その子が神さまの所にいけるように接しなければならない、と言われているのです。
また二つ目は、「妨げてはならない」です。
弟子たちは子どもが来るのを妨げました。教会に子どもが来ることを積極的に邪魔してはならない、と言われるのです。
しかし、実際は、子どもが周りで騒いでいたりしたら、私たちは集中して礼拝出来ないですよね。子どもが我が儘言い出したりしたら、もう大変ですよね。
子どもと接すると、非常に忍耐が必要とされるのです。
子どもが来るのを妨げない。それは、大人が大人としてあるための訓練の一つでもあるのであります。
ですから、私は子どもを教会の一般の礼拝にも積極的に参加するべきであると考えております。そうであれば、子どもたちにも受け入れられる礼拝方法を模索していかなければならなくもなりますし、教えるべきことは教えなければならなくなります、さらに私たちの側の忍耐力も養われ、本当の意味で信仰者としての大人へと成長することが出来るのであります。
また、妨げない。だからといって無関心であっても良くないでしょう。子どもを無視するようでもいけません。
妨げないのですから、歓迎するべきでしょう。ジュニア・チャーチがありますが、教会の一部です。ぜひこの働きも覚えていただき、皆さんにも関わって頂きたいと願っております。ここにも無関心ではなく、たまには一緒に礼拝を守ったり、また来ている子どもたちに接し、励ましてあげてください。
最後にイエスさまは人々に、「子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決して神の国に入ることは出来ない」と言われました。
「子どもにならなければ」ではありませんね。「子どものようにならなければ」です。
子どもの特徴は何でしょうか?人によってはすぐに思い浮かぶ子どもの特徴は「我が儘」ですね。
確かに子どもはわがままでうるさいです。でも、子どもにはもっと素晴らしい特徴がいくつかありますね。
1. 全てのものに新鮮な気持ちを持っている。
私が子どもの頃、一日一日がやたら長く感じて、1年ってすごく長く感じました。誕生なんて、待っても待っても来ないなぁ、なんて考えていたのです。でも、最近は1年が短いのです。あっという間に1年2年って過ぎ去ってしまうのです。それで、何でだろう?って考えました。
子どもの頃は、殆ど全てのことが初めての体験でしたから、色々なことに感動していたのです。ですから、毎日が新鮮で、充実していたのです。でも、年を重ねると、「またこれか」、「あぁ、今度はこれね」と全てのことが何気なく過ぎてしまうのです。同じ時間をさりげなく過ごしてしまうのです。
この感覚が、信仰にもあると思うのです。救われた時は、全てが新鮮。でも、信仰歴が長くなると、神さまが一緒にいて下さる感動が薄れていき、それが当たり前になってしまう。信仰が輝かなくなってしまうのです。
子どものように、常に新鮮な感動をもてるような信仰にして頂いて日々を過ごしたいですね。
2. 子どもは無条件で親を信頼します。
子どもの生活は、全て信頼の上に成り立っていますよね。私はあまり親を信頼していた、という感覚は持っていませんでしたが、確かに振り返ってみると、「信頼している」と意識しないほど完全に信頼していたのです。
ですから、焼肉屋に入っても、値段を気にせず、好きな肉を好きなだけ注文しましたよ。旅行やレジャーに行っても、親が全てを払ってくれるもの、と信じきっていたので、自分の財布(持ってなかったが)に手をかけることさえしませんでした。金銭面に限らず、全ての面で親を信頼して生きているのです。
人間の親をそれほど信頼している私たちですが、神さまのことはどうでしょう?それほど信頼しているでしょうか?
自分のためにイエスさまが十字架にかかって下さった。イエスさまという神の独り子が血を流し、命をかけて自分の罪を贖って下さった。
この事実に対して、「でも自分はそれくらいでは清くならないだろう」。「あと自分がこれくらい努力しなければ、本当に罪のない者にはならないだろう」。とか言って、神さまが大きな犠牲を払ってまで、私たちのために成して下さった御業を疑ったりしていませんか?
イエスさまが私たちの罪を赦して下さった。そして私たちのために常に最善を成して下さっている。この事実を子どもの様に純粋な気持ちで、信頼しきってまいりましょう。
3. 子どもって従順ですよね。
子どもは本来従順ではないでしょうか。特にアメリカの親子関係をみていますと、子は親の言うことを聞いて当然なのです。親の力は絶大です。我が家は、時にどうしようもなくわがままになる娘ですが、それでも基本的には従順です。「これ持って行って」、「これを捨てて」と言うと、わかる言葉でわかるように伝えれば、それを行ってくれるのです。
大きくなって、親に不平をこぼすことがあっても、基本的には親の言葉が律法となり、その言葉には従順なものなのです。
このような従順さを持っているでしょうか。神に対して、子どものように従順でありましょう。
4. 子どもの許容力は素晴らしい!!
私の妹の子育ては、他から見るととても腹ただしい限りです。子どもに対してその扱いは酷い!!という接し方です。でも、子どもにとって親は、どこまで行っても親なのです。
現在では虐待を受けたり、捨てられたりする子どもが多いのですが、そんな子どもたちにとっても親はあくまでも親なのです。どんな不正な扱いを受けても、理不尽なことを言われても、親は親。それは、彼らの人を赦す、という能力が非常に優れているからではないでしょうか。
もし私たちが、この子どものような許容力を持ったらどうでしょう。私たちの教会は、そして社会は、さらには国が、大きく生まれ変わるのではないでしょうか。
私たちは、自分の力でこの「子どものような」力を得ようとしても得られるものではありません。
まず、完全な神さまの子どもになりましょう。イエスさまに赦された!!イエスさまの十字架によって、私たちの罪は本当に赦されたのです!!
この事実を疑わず、自分のものといたしましょう。
そして神の子どもとして、私たちは大人であっても、常に子どものような心を持ちつづけましょう。
私たちの神さまは、本当に豊かな愛情を私たちに注いで下さっております。この愛情に育まれながら、神の国を「子どものように」受け入れるものとさせていただきましょう。