喬木教会説教
2002年3月17日

恵みによって   ルカ18:18〜30

18:18ある議員がイエスに、「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねた。19イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。20『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」21すると議員は、「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。22これを聞いて、イエスは言われた。「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」23しかし、その人はこれを聞いて非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである。

24イエスは、議員が非常に悲しむのを見て、言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。25金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」26これを聞いた人々が、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言うと、27イエスは、「人間にはできないことも、神にはできる」と言われた。28するとペトロが、「このとおり、わたしたちは自分の物を捨ててあなたに従って参りました」と言った。29イエスは言われた。「はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも、30この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける。」

 

神さまを讃美することは、何と素晴らしいのでしょう。最近の夕礼拝では、讃美をたくさん捧げます。讃美を捧げれば捧げるほど、何とも言えない平安と喜びを覚えるのです。これは不思議なことですね。

ある方が家族で夕拝に参加しました。この方がこんな感想を述べました。「夕拝の後、家に帰ると、家族がいつもにない穏やかな雰囲気になるんですよ」。

もともと私は歌を歌うのが好きでした。だからカラオケにもよく行きました。でも、クリスチャンになって讃美を知って、その後カラオケに行くと、好きな歌を好きなだけ歌うのですが、カラオケから帰ると何とも言えない空しさを覚えるのです。不思議でした。

でも讃美は、歌い終わって、しばらくしても心が平安で、非常に穏やかになるのです。

神さまを知り、神さまと共に生きることは、心を常に平安と喜びで満たすものです。

 

今日の聖書箇所には、「ある議員」という人が出て来ます。何の議員なのかわかりませんが、神殿に関係する議員でしょう。ですから、神さまを知っている人、と言うことが出来るかも知れません。

この議員は、イエスさまのもとに行き、「永遠の命」を受け継ぐ方法を聞いております。彼は議員で、聖書も知っている人物ですから、聖書によって「永遠の命」を得る方法は十分知っていたでしょう。ですから、律法で言われていることは幼い時より守っている、と言っております。

それでもイエスさまのもとに来て、その方法を尋ねているのです。

彼は、律法を行うだけでは、心に平安、安心感を得ることが出来なかったのです。

 

「永遠」という言葉に皆さんは何を思うでしょうか?

日本人の時間の捕らえ方からすると、「永遠」という時間は考えにくいものではないでしょうか。「人は死んだら終わり」または、「死んだら別の人格になって生まれ変わる」という考え方が定着しているようです。

しかし、聖書を見ると、人は死んだらその後、裁きを受けて永遠の世界で住むことが記されております。

そのため、聖書には「永遠の命」が人間には必要であることを教えております。そして「永遠の命」を自分のものとする時、「死」というタイムリミットがなくなり、本当の平安を得ることが出来るのです。そしてその平安が、心にゆとりを持たせ、心からの喜びを与えてくれます。

 

本当の安心感を得るために、人々は律法を作り出し、一生懸命それを行います。律法を守ることに神経を集中するため、しばらくは充実するでしょうが、幼い時から律法を守ってきた議員は、それを守ることによっても平安を得ることが出来ず、焦っていたのでしょう。それでイエスさまのもとに来たのです。

 

イエスさまは、彼にまず言いました。「神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」(19)。

人、又は人の作った物。ばかりを見ていても心は満たされません。神という存在に目をむけることが何よりもまず重要である、ということです。

そしてさらに律法を守ることを伝えまえました。それに対してこの議員は、律法は守っていると言ったのです。

神に目を向けず守る律法は、私たちに平安を得させません。しかしそのことを彼に言っても理解は出来ないでしょう。「自分は神を見て、神と共に生きている」と思い込んでいるからです。

そこでイエスさまは、彼を慈しんで言われたのです。「あなたの持ち物を全て売り払い、貧しい人に売り払いなさい。そして私に従いなさい」と。

イエスさまは意地悪で言ったことではないのです。この議員の本当に必要な部分を示されたのです。

 

最近、数字の統計をとって、100人で例える話が流行っているそうです。その中で、こんな統計がありました。

現在の世界人口を100人の村に置き換えると、アジア人が57人。ヨーロッパ人21人。南北アメリカ人14人。アフリカ人8人となり、その内、男性48人。女性52人となるそうです。

宗教を見ると、キリスト教以外が70人。キリスト教は30人。

経済面を見ると、その村の富59%を6人の人が所有している。その6人ともアメリカ国籍をもっています。そしてその村には栄養失調で苦しんでいる人が50人もいるそうです。

さらに、家の冷蔵庫に食料があり、着る服があり、屋根があり、寝る場所があるとすれば、世界の75%の人よりも裕福になるそうです。また、銀行に預金があり、財布にお金があり、家のどこかに小銭があれば、世界中で裕福な8%の中の一人となるということでした。

 

この統計で見ると、私たちは裕福な8人の中に入るのでしょう。そして、この8人の中に入ってしまったがゆえに、さらに裕福になることを求めてしまい、裕福になることこそが本当の平安を得る道である、と思い込んでしまっているのではないでしょうか。

 

100人の中の8人になってしまったから、他の92人のようにはなりたくない。そんな思いもあります。

でも、そんな私たちにイエスさまは何といわれたでしょうか。

持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」と言われるのです。しかも、「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。25金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」とまで言われました。

私たちはこう言いたくなるのではないでしょうか。「それでは、だれが救われるのだろうか?

 

本来、人は永遠の命を得ることの出来る存在ではなかったのです。

自分の持ち物を全て捨てるなんてことは、誰にも出来ないでしょう。

それでも、イエスさまはそのことを求めたのです。そして弟子たちはそのことを行ったのです。

私たちも、持ち物を捨てて、イエスさまに従えば、「この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける」ことが出来るのです。

 

恵みの内を生きる

ある時、この箇所からメッセージを聞きました。メッセージをした牧師は以前別の場所で、ここから説教をし、持ち物を捨ててイエスさまに従うことは無理だ、と言ったそうです。その後に信徒の方が来て、「本当に無理ですよねぇ」と言われたそうです。牧師もそうだよなぁ、と思った所、その方が言葉を続けたそうです。「でも、恵みによってなせないでしょうか」と。この牧師は雷に打たれたようにハッとして、目の前が開けたと言われました。

 

親は子に、無理なことを要求するでしょうか?先生は生徒に絶対に出来ないことをやることを求めるでしょうか?それぞれの状態に出来ることを求めるのではないでしょうか。

 

神さまは私たちに、持ち物を全て売り払ってイエスさまに従うことを求めました。これを「出来ないこと」だと思うでしょうか?

神さまは私たちに出来ないことは求められません。

さらに、求められたことを行うことが出来るようにと、そのために必要なものまで備えて下さるお方です。

この神さまが私たちに、イエスさまに従い、永遠の命を得、心からの平安、喜びに満たされるように望んでおられるのです。

 

このことが可能となるために、神さまは独り子であるイエスさまをこの地上にお遣わしになり、私たちの罪を背負わせて十字架につけられたのです。

人の過ちのために自分の大事な独り子を犠牲にしたのです。

こんなあり得ないようなことをされた神さまが、持ち物を全て捨てるなんていうことの出来ない私たちにそれを成し得るように働きかけてくださるのです。

 

現実の社会で、私たちは全てのものを捨てる、ということはおそらく、求められないでしょう。

今の私たちに求められるところは、全てのものを「神さまの物」とすることです。今まで自分の名前でユーザー登録されていたものを、全て神さまの名前で登録しなおすことです。

そして、私たちの持てる力、能力、財産等全てを、神さまが望まれるように使っていくのであります。

 

少しの物に固執する時、少し以下のものしか得ることは出来ません。

全てを神さまの前に捧げ、全知全能なる神さまの御手の中で働かせる時、私たちの報いは何百倍にもなり、さらには永遠の命まで得ることが出来るのです。

 

恵みによって、自分の持てるもの全てを、神さまに捧げてまいりましょう。