喬木教会説教
2002年3月31日

預言の通りに    ルカ18:31〜34

31 イエスは、十二人を呼び寄せて言われた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子について預言者が書いたことはみな実現する。32 人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。33 彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する。」34 十二人はこれらのことが何も分からなかった。彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである。

 

「占い」ってありますね。「予言」とも言われたりしますが、占いは、将来のことを人に伝えるものであります。「あなたはこんな目にあいますよ。そうならないためには、こうした方がいいですねぇ」とか、「あら、将来が開けてますよ。素晴らしい!!」とか、「今日のラッキーカラーは何色です」とかね。

でも、この占いってどうですか?当たったり当たらなかったりしますよね。「当たるも八卦、当たらぬも八卦」なって言ったりしますものね。だから、適当なことを思いついて、ポンポン言える人なら誰でも出来ちゃうものかも知れませんね。

 

聖書にも、将来のことについて書かれている所がたくさんあります。その中の多くは聖書の中で実現していることが分かります。書かれていることが実現しているのです。

聖書の中で、将来のことが語られることは、「占い」とか、「予言」とか言われていないのです。それは「預言」という言葉が使われていて、それは、預かった言葉が語れる、という意味です。

誰かが先(将来)のことを知っていて、そのことを誰かに伝える。その伝えられたことを人々に向かって語る人が「預言者」であります。そして将来のことを知っているお方というのが、この天地万物を造られ、永遠に存在しておられる創造主なる神さまであります。

神さまの存在は、私たち人間とは違います。永遠という限りない大きな視野の中で、私たち人間を見つめて下っております。私たちが長い時間を感じているときでも、神さまにとっては一瞬に見えるようなお方です。

この神さまが私たちの将来を知り、そして私たちが命を得るように、という思いから将来の出来事を預言者に託し、私たちの生きる道を示して下さるのです。

ですから、適当なことは全くありません。すべてが真実となります。そのため、神さまの預言は100%、完全にその通りになるのです。

だから、イエスさまは「人の子について預言者が書いたことはみな実現する」と言われました。具体的には、イザヤ書の53章などがそうではないでしょうか。

イエスさまが生まれる何年も、何百年も前から、イエスさまのことが書かれていたのです。

その言葉は、昔の人には全く理解出来ない言葉であったでしょう。ただ漠然と、救い主が来られるということだけを理解し、信じていました。ですから、イエスさまがご自分が預言の通りに苦しみに会い、死ぬ、と言っても弟子たちにもそのことが理解出来なかったのです。

 

イエスさまは今日の箇所でもう一度、どのような預言があったのかを弟子たちに伝えました。

そして私たちは今日、イースターをお祝いしている訳ですが、まさに、イエスさまは弟子たちに伝えた通り、一度死にましたが復活し、その死に対する勝利を、永遠の命を私たち与えて下さっているのです。

聖書の言葉は100%真実です。

イエスさまを信じる者には永遠の命が約束されています。その命を受けましょう。

 

聖書を見る時に、私たちは「信じるだけ」で救われる、とあります。ですから、苦行を行う必要もありませんし、修道院のような所に入る必要もありません。信じるだけで、どのような罪でも救われるのです。

しかし、そう言われるため、キリスト教界では、イエスさまを信じれば全て救われるのだから、何をやっても良いのだ、という風潮が生まれている所もあります。

「もともと人間は弱いのだから、神さまを第一に生活することなんて出来ない。思い出した時にお祈りして、日曜日の礼拝を守っていれば良い。日常の生活の中まで神さま漬けにされたのでは息が苦しくなってしまう」という声です。

 

もし、あなたの愛する人が苦しみの中にあったら、あなたはどうするでしょう?

愛する人、大事な人が、病で苦しんでいる。大きな事故に巻き込まれて苦しんでいる。そんな時、あなたの気持ちはどうなるのでしょう?

まぁ、あの人は苦しんでいるけど、私はなんともないし...と言って、いつもと変わらない生活が出来ますか?もし、あなたの愛する人が苦しみ、血を流し、そして今にも死のうとしているその時に、あなたはその横で談笑しながら、飲み食いしていられますか?

おそらく、出来ないと思います。その愛する人が苦しんでいるのと同じ苦しみを、自分も背負いたいと思い、その人から苦しみが取り除かれるように必死に祈るのではないでしょうか。

 

最近は、キリスト教は恵みだから、禁欲的な行動はしなくて良い。という風潮がありますね。その通りだと思います。禁欲は意外と自分の欲を満足させるために働いたりしてしまいます。禁欲をしたからと言って、私たちの徳が積み重ねられて、天国に近づいたり、何て言うことは全くありません。

私たちはただ、神さまからの恵みによって信じるだけで救われた者です。この神さまの恵みに留まっている以外に、救いの道はないのです。ですから、禁欲はなんの助けにもなりません。

しかし、神さまが自分の命まで捨てて私たちを救って下さったのに対して、私たちがあまりにもそのことに無感動、無関心でよいのでしょうか。

イエスさまは、神でありました。しかし、私たちを救うために、神の位を捨て、人となり、そして十字架にかかるまでにその身を低くして下さいました。全て私たちを愛する愛の故であります。

 

この愛を受けた私たちは、どうなるべきですか?どうなった方が良いですか?

イエスさまが苦しんでくださったおかげで私たちは苦しまなくて済んだ。だから私たちは苦しまないように生きよう、ということでしょうか。

せめて、私たちのことを愛して下さったイエスさまに、自分も愛を持って応えたい、というようには思わないでしょうか。

その応える形は様々でしょう。でも、命がけで愛して下さった。それに対して、ただ「ありがとう」と言うだけでは、何か淋しすぎはしませんか?

心からの「ありがとう」があれば、その思いが生活に何らかの影響を及ぼすのではないでしょうか。

 

イエスさまは、預言が100%実現すると分かっていましたから、これから自分がどうなるのかも十分に理解しておりました。ですから、十字架にかかりたくない、と思えば逃げ出すことも出来たのです。

でも、逃げ出しませんでした。なぜですか?あなたを愛していたからです。

あなたの背負っている重荷を軽くしたい。あなたを縛っている罪を打ち砕きたい。あなたの魂に永遠の安らぎを与えたい。そう願うイエスさまのあなたに対する愛が、イエスさまの足を十字架に向け、神さまの愛が実行されたのです。

 

今私たちは、イエスさまが私たちの罪の贖いのために十字架について下さったことを信じるならば、神さまは私たちの罪をことごとく赦し、清めて下さいます。

私たちの信仰は、ご利益宗教ではありません。でも、最大のご利益と言ってもいいくらいの、「永遠の命」が約束されているのです。

このために命まで捨てて下さったイエスさま。

今日はそのイエスさまが復活なさったことを記念する聖日です。

主の復活が私たちのためであったことを覚えつつ、今度は私たちが主に何を出来るのかを探り、自分の思いを、行動を持って主に現していくものでありましょう。