喬木教会説教
2002年4月7日

何をしてほしいのか ルカ18:35〜43

35 イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道端に座って物乞いをしていた。36 群衆が通って行くのを耳にして、「これは、いったい何事ですか」と尋ねた。37 「ナザレのイエスのお通りだ」と知らせると、38 彼は、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだ。39 先に行く人々が叱りつけて黙らせようとしたが、ますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。40 イエスは立ち止まって、盲人をそばに連れて来るように命じられた。彼が近づくと、イエスはお尋ねになった。41 「何をしてほしいのか。」盲人は、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と言った。42 そこで、イエスは言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」43 盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った。これを見た民衆は、こぞって神を賛美した。

 

 

イエスさまがエルサレムに入られる前、エリコという町に入られた。

当時、過ぎ越しの祭りが行われる時であり、多くの巡礼者と一緒にイエスさまは旅をしていた様子です。そしてラビ(先生)と呼ばれる人々は、歩きながら、周りに人々に教えを説いていたようです。

イエスさまがエリコに入られた時は、多くの人がイエスさまの周りに群がり、イエスさまは歩きながら神の国について教えておられたのではないでしょうか。

そしてイエスさまは時の人です。本当に大勢の人が押しかけていたのでしょう。イエスさまがいるだけで、そこの空気は完全にいつもと違うものになります。

その空気を察知したのが、盲目の人(マルコ福音書によればバルトロマイ)でした。

目の見えない方は、嗅覚や聴覚など、他の器官が普通の人より優れています。ですから、イエスさまが来られた時、いつもと違う雰囲気にただ事ならぬ気配を感じたのでしょう。

彼はイエスさまに救いを求めました。そしてイエスさまはそれをかなえてくださいました。

 

私たちの救い主イエスさまとはどのようなお方なのかを見ていきましょう。

1.   求める者の声を聞いて下さるお方

目の見えない人がイエスさまに叫び求めた時、周りにいる人々はどのような反応をしたでしょうか?

「やかましい!!」「黙れ!!」と言って彼を叱り、黙らせようとしました。

その理由は、イエスさまが歩きながら教えを説いていたので、その妨げをしないように、とのことだったのでしょう。現在であったならば、この目の見えない人こそが優先され、一番良い所に連れて行かれたでしょうが、当時は「障害を持つ=罪を犯した結果」と考えられていたところがありますので、邪魔者のようにして扱われておりました。

先日、ある方と話しをしていました。その方は、人間関係は減点方式によって築かれていると思っていた、と言われました。最初は相手を100点と思っている。でも付き合う中で様々な欠点を見出し、100点からどんどん点数を引いていくのです。そして点数がなくなったら別れるなり、離婚するなりすることになる、という考え方です。

そう言われて思いました。日本人の教育方法も減点方法ではないかと。

今週は父の見舞いに行き、実家にも寄ったのですが、妹の子育ての中で、「ほら、さちかに負けてるよ」という言葉をよく聞きました。姪っ子は娘より1才半年上です。だからサチカに負けないように頑張れ、と言っているのでしょう。でも、サチカより優れた部分は褒められないのです。「負けている」部分だけが強調され、暗黙のうちに、「あなたはまだまだだよ」。というメッセージが伝えられているのです。

こんな環境に育てられるのですから、褒めあう関係は想像もつかなくなってしまうのですね。ですから、自分に対するセルフイメージも当然低くなります。

セルフイメージが低くなると、人に接する時、卑屈になりやすいですね。物事を頼もうと思ってもはっきりと依頼できなかったりします。

それが祈りの姿勢に現れたりもします。

神さまは全てのことについて祈って欲しい、と思っておられます。でも、「いや、このことは自分でしなければならないことだから」とか、「そんな内容について祈ってはいけない」とか、酷くなると、「神さまは自分みたいな汚れた人間のことは顧みてくれない」とか思ったりするわけです。だから、祈りは建て前が多くなり、神さまとの生きた関係は弱くなります。

でもね、神さまの側はどう思っておられるのかと言うと、この世にたった一人しかいないあなたの存在をこの上なく愛しておられるのです。しかも、あなたが生まれる前からあなたのことを知っていて、これからもずっとあなたと共にいたいと願っておられるのです。

人は自分を減点法で裁きますよ。私も減点法によって、点数なんか1桁でもあれば良い方だと思いますよ。でも、神さまは加点法で私たちを見ていて下さるのです。良い所を見ては喜んで下さるのです。

この神さまは、私たちが心を神さまに向けて、「神さまー!!私を憐れんで下さい!!」と叫ぶのを待っていて下さっているのです。そして私たちが神さまを呼ぶならば、神さまは必ず応えて下さるのです。

神さまに大事な存在とされているあなたですから、ぜひ神さまに叫び求めてください。イエスさまは絶えずあなたの方に耳を傾けてくださっております。

 

2.   願い事を引き出して、聞いて下さるお方

カウンセリングという職業がありますね。ここに行けば、必ず私たちの声によく耳を傾けてくれます。そして私たちが何を求めていて、どこに問題があるのか、はっきりさせてくれます。

ですがカウンセラーは、あくまでも私たちの心の問題を扱うだけですから、私たちの人生に介入してきたり、いつも一緒にいてくれたりするものではありません。

しかしイエスさまはどうでしょう。私たちの声をよく聞いてくれます。訴えを最後までジッと聞いてくださいます。

人は大体自分の思いを吐き出して、それが聞いてもらえた、という点で満足しますよね。そう言う点で、イエスさまはまさに最高のカウンセラーだと思います。

さらに本当の私たちの求め、私たちが本来求めなければならないことを引き出して下さり、そのことを求めることが出来るようにしてくださるのです。

教会に来て間もない方は祈りかたを知らないといいます。また、教会に長いこと通っている方でも、時にどのように祈ったらよいかわからないといいます。他にも、大きな問題を抱えすぎていて、祈る気力もない、祈る声も出ない、どのように祈っていいのかわからないほど問題が大きい、と言う場合もあります。

こんな時、カウンセラーはジッと待たざるを得ないですね。でも、イエスさまはどうでしょう?私たちに深く臨んで下さっているお方ですから、本当に私たちが求めなければならないことをグッと引き出して下さり、そのことを神さまに求めさせてくださるのです。

聖書には、「26 同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。27 人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです(ローマ8:26,27)とあります。

私たちには色々な欲がありますから、本当に必要なものが何であるのか、時にわからなくなることもあるのです。そんな私たちの弱さも知っている神さまは、イエスさまを私たちに与えて下さり、そのイエスさまによって、正しい「求め」を引き出して下さるのです。

盲人は、物乞いをしている人でした。そんな状況におかれていれば、立派な家や財産、豪華な暮らしをしたい、と願っていても、または今まで自分を馬鹿にした人々に仕返しをしたいと願っていても不思議ではない状況です。しかし、彼はただ一言、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と答えたのです。

目が見えるようになったとしても、まともな生活が保証されるわけではないでしょう。将来的なことを考えれば財産があって、自分の世話をしてくれる人を与えてくれと願った方が特ではないですか。目が見えても職がなかったり、お金がなかったりすれば、結局今までと同じ生活を続けなければならないでしょう。

でも、彼に本当に必要だった状況は、目が見えるようになることだったのです。

私達の本当の求めとは何でしょうか?それは、神さまの永遠の視野を持って見てみなければ本当の所はわからないものです。

心を神さまに向けて、声を出して見ましょう。そうしたら、神さまが、不思議な導きを与えて下さり、自分の一番必要なことを教えて下さいます。イエスさまはそのようにして、私たちの本当の思いを引き出してくださるお方なのです。

 

3.   願い事をかなえて下さり、神の栄光を現すお方

最後にイエスさまは「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」と言われました。そして男は目が見えるようになったのです。

このことによって、その所にはどのようなことが起こったでしょうか。

盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った。これを見た民衆は、こぞって神を賛美した。」というのです。

私たちは自分の功績を常に認めてもらいたい、と願うものです。ですから自分がやったことは、人に話したいし、そのことで褒められ、感謝されたいのです。

先週、群の年会がありまして、協議会の中で一人の発題者が一言、私が神学校在学中に作っていた新聞のことを取り上げたんです。それが良かった、という話だったのです。そんな時は、「あ!!それ作ってたのボクです!!ボクです!!」なんて言いたい気分になってしまうのです。「あんな勝手なものを作られたら困る」という話でしたら、黙っておきたいことでも、褒められ、感謝されると、「もう、何で名前を出してくれないのかなぁ」なんて思ってしまうのです。

でも、自分がやった、自分のお陰でこれこれこうなった、という話がなされている時に、その結果を生み出すために根本的な部分を導いた神さまの存在はどこに行ってしまっているのでしょうか?

「自分が、自分が、」という時には神さまが隠れてしまうものです。そして、人の働きに完璧なものはありませんね。誰かが成功すると、その陰には妬む者や、その足を引っ張ろうとする者がいたりするものです。だから、自分の成功談は、自分が栄光を受けた気になってしまいやすいものになるのです。

今日の聖書箇所では、イエスさまが盲人の目を癒し、見えるようにしました。それは奇跡です。普通の人に出来るような業ではありません。このことをやってのけた、というだけで超有名人になり、自分の虚栄心を満たして余りあるものになります。

ところが、イエスさまはこの業によって自分の業を誇っているでしょうか?全くそのようなことがありません。それどころか、見えるようになったのは、「あなたの信仰」があったゆえだ。あなたが自分で見えるようなったのだ、と言わんばかりのことを言っているのです。そして全ての栄光を神さまにお返ししております。ですから、その場にいた人々は皆、「こぞって神を賛美した」のです。

これは誰かの成功談でも、自慢話でもなく、またパフォーマンスでもないので、妬む人も、足を引っ張ろうとする人もいないで、全ての人が神を讃美しているのです。

イエスさまの功績は本当にすばらしいものです。目の見えない人を見えるようにし、耳の聞こえない人を聞こえるようにし、足の不自由な人も歩けるようにし、ハンセン病も全く癒しましたし、人々に福音を語り伝えました。これだけで、メシアであることが十分にわかる働きです。

さらに、私たち人間が罪で苦しまなくて良いようにと、ご自身の体を十字架につけ、私たちの罪を完全に贖って下さったのです。そして、一度死んだのに、生き返り、今も生きておられるのです!!

この世でどんな成功を収めた人よりもすごいことを行っております。その方が自慢話をすれば、誰もが驚嘆し、その働きを褒めたたえるでしょう。

でも、イエスさまはご自身で自慢話をされるようなことをしておりません。そして、ただひたすらに神さまの栄光をあらわすことだけに心がけました。なぜでしょう?

もし、御自身が武勇伝を語り伝えていたならば、それに反抗する勢力が強く働くからでしょうか?とにかく、イエスさまは、ご自分の成した業を、私たち人間を通してのみ現すことにしておられるようです。

ということは、私たちが願い求めることも、神さまの栄光を現すことであったならば、神さまは喜んで願いをかなえて下さる、ということではないでしょうか!?

神さまが喜んで下さることは、私たちが神さまとの関係を持ち、喜んで神さまと交わることです。そして愛する人の幸せを願うように神さまの幸せを願うこと。

その中で神さまに声をかける、祈るのであれば、神さまは喜んでその声に耳を傾け、本当の私たちの願いを引き出し、そして私たちの求めを通して神さまの栄光を現して下さいます。

大きな喜びと、感謝をもって、神さまに願い求めて参りましょう。