喬木教会説教
2002年4月14日

救いが訪れた     ルカ19:1〜10

19:1 イエスはエリコに入り、町を通っておられた。2 そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。3 イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。4 それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。5 イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」6 ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。7 これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」8 しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」9 イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。10 人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

 

この聖書箇所はとても有名な箇所であります。教会生活をしばらく続けている方はよく聞いているところでもありましょう。また、喬木教会では、昨年のクリスマスにこの所から劇もいたしました。男性の皆さんは登場人物になったので、物語が読まれる度にそのストーリに入っていけるのではないでしょうか。

 

イエスさまはついにエリコの町に入りました。この町はヨルダン川の東側にありまして、エルサレムに入る入口になるような町であります。エルサレムで十字架につくイエスさまにとっては、エリコに入ることはすなわち、死の階段に足をかけたことを意味するのです。

 

このエリコという町は、肥沃な町であったそうで、とても豊かだったそうです。豊かな所には人も集ってきます。そして人が集まってくればお金も集ります。お金が集ってきますから、当時イスラエルを支配していたローマ帝国は、エリコをパレスチナの中心的な課税地にしていたようです。

ローマによって税金が課せられるわけですが、その税金を徴収するのはイスラエル人であり、徴税人と呼ばれる人々でした。ですから、イスラエル人にしてみたら、同じイスラエル人が憎いローマ人のために働き、さらに同胞からお金を巻き上げるのですから、面白くないどころか、腹立だしいことですよね。そんなことで、徴税人という職につく人々は、同胞からとても嫌われておりました。

そして今日登場したザアカイという人物は、この「徴税人の頭」であると記されております。嫌われている団体のボスですよ。ですからとても嫌われている人です。この人が、今日、イエスさまと出会い、そして彼の人生に変革がもたらされたのです。

どのような変革がもたらされたのでしょうか?

 

まず、「解放」です。

彼、ザアカイは大金持ちでした。しかしその財産は同胞から奪い取ったものです。その財宝には人々の恨みつらみが染み付いておりました。

だから彼は、いくらお金を集めても、喜びも、平安も、感謝もなかったのです。このような状態にあったザアカイですから、知らず知らずのうちに「愛」を求めていたのでしょう。

後ろ指さされ、悪い噂話しかされないザアカイですが、噂に、そのような罪人と一緒に食事をするラビ(先生)がいる。その人は預言者かも、いやメシアかも知れない、といううわさを聞いていたのでしょう。

ですから、イエスさまが町に来られた、と聞いた時には、その人は自分にでも声をかけてくれるような人なのか、または自分の存在を受け入れてくれる人なのか、話の出来る人なのか、とても興味が湧いたのでしょう。

彼は人ごみに入り込みました。彼のことを憎んでいる人々の中に飛び込んでいったのです。大勢の人がいます。体がぶつかったって、誰とぶつかったのかわからないような状況です。彼はおそらく、誰からともわからずに殴られ、蹴られ、踏まれたのではないでしょうか。さらに、イエスさまが絶対見えないように意地悪もされていたのでしょう。

そして自分の背が低い、ということにとてもコンプレックスを感じたことでしょう。彼は人ごみの中で、自分にないものを悔やみ、恨んだと思います。そして受け入れてくれない人々にさえも、何か恨めしい思いを抱いたことでしょう。

私たちも人の中に入ってみると、つい人と自分を比較して、自分にないものが見つかれば言い訳をしたり、背伸びをしてみたり、逃げ出したりしてしまいませんか?隣りの芝生は良く見える、と言われておりますが、自分に自信が持てず、背伸びをしたりしてしまうことはないでしょうか?

ザアカイはここで、精一杯の背伸びをします。それが桑の木に登ることでした。

桑の木は比較的登りやすい木だそうです。ですから、ザアカイでも登れたのでしょうが、しかし高いところというのは疲れますね。もう慣れてしまっている方は大丈夫かもしれませんが、私は高所恐怖症でして、高い所から下を見ると、クラクラして足がすくんでしまいます。

先日、教会の屋根が強風で飛んでしまいまして、それを確認するために教会の屋根に登ったのです。役員の方は、その壊れた部分まで降りて行きました。私も簡単に出来るだろうと思って登ったのですが、登ってビックリ。結構高くて眺めが良いのです。それだけでクラクラしました。でもそれを抑えてちょこっと登ってみると、斜面は意外と急なんですね。そしてコケも生えててすべるのです。とてもじゃないですが、その役員の方行ったところまでは降りていけませんでした。

高い所に行けば、バランスをとらなければならない。落ちないように神経を集中しなければならない。そして怯えていることを悟られないように平気なフリをしていなければならない。で、とても大変なのです。

背伸びをして、自分を偽っていても同じではないですか?疲れるでしょう。

そんな私たちに向かって、イエスさまはどうされたのでしょう。

イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」。と言われたのです。高い所に登って、人並みにしよう、人より優れた者であろうとする私たちの下に立ち、私たちを見上げて、「大丈夫だから、降りてきなさい。私は背伸びをしていない、あなたの所に来たのですよ」といわれるのです。

神さまのイメージを、「高い所から人間を見ている存在」と捕らえる方が多いのですが、実際はイエスさまは私たち人間の下に立って下さり、そして、そんなに背伸びしなくても良いのだよ。地面に足を付けて、リラックスしてごらん。私はあなたの所に来たのだから。と言われるのです。

人々から嫌われ、それでも大丈夫だ!!と意地を張っていたザアカイは地上に降りてきました。背の低い彼はそこでイエスさまを見上げてことでしょう。そして主を見上げた時に、彼は心からの解放を味わったのです。

地に足がついて、背が低くても気にしない。人々からどう見られていようと気にならない。主を見上げただけで、本当の解放感を味わい、彼の内には喜びが沸きあがってきたのです。

 

続いて彼は、いつもにない行動を取るようになりました。

人々から嫌われてもいいように、お金で自分をカモフラージュしていたのに、その彼はお金を手放す決意をしたのです。そして「財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」と言ったのです。

なぜそのような決断が出来たのでしょう?いままでの彼にとったら、お金こそが自分の存在価値を作り出す唯一の道具だったのです。そのお金を手放すのです。普通は出来ない決断ではないですか。

その決断を、苦しみの中から、仕方なく...というのではなく、主に出会った喜びの中で、「させて下さい」というようにしてこの決断をしたのです。

私たち人間は、不思議なもので、自分の喜びを追い求めて、自分の欲を満たす時に喜びを感じたりもするのですが、それよりも、他人を喜ばせること、そして神さまを喜ばせることにはもっともっと大きな喜びを覚えるものなのです。

ザアカイは、主に出会い、主が自分のために来て下さった、ということを理解した時、その主を喜ばせたい、という思いにかられたのでしょう。そしてあのような決断に促されたのでしょう。

主はザアカイを責めませんでした。彼の寂しさを、愛によって癒したのです。そして癒されたザアカイは喜びと共に、人間性を回復し、神さまを喜ばせる行動をとるようになったのです。

信仰は、私たちに尽きない喜びをもたらします。しかし、時に喜びを忘れてしまい、教会生活に、信仰生活に疲れを覚えることがあります。そんな時に確認してください。「私は主を喜ばせるようなことをしたかな?」と。

愛する人の笑顔を見るのはたまらなく嬉しいものです。主を喜ばせる行動をとりましょう。

 

最後に彼は、主の道に従ったのです。

主は、「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」と言われました。失われた者を捜す。誰が失われた者だったのでしょう?ザアカイは迷子だったのでしょうか?彼はちゃんとエリコの町を知っていたでしょうし、彼は家に帰れなくなっていたなんていうことはなかったでしょう。しかし、イエスさまは失われた者を捜すために来た。そしてここにザアカイを発見し、彼が救われた、と言ったのです。

失われた、とはどんな意味でしょうか?

皆さんは迷子になった経験はありますか?私は幼い時にはしょっちゅう迷子になりました。どうして迷子になったのでしょう?

幼い頃、よく買い物に行きますね。大きなスーパーとか、あと動物園とか、遊園地も。スーパーなどは何度か行ったことのある所なら、大体どこに何があるのかわかります。それで、あっち行って、こっち行けば自分の目指すおもちゃ屋があります。そこで私は先頭きって進んで行きます。当然皆おもちゃ屋に行きたいだろうと思っているのです。それでフッと後ろを振り返りますと、誰もいないのです。「あれ?」と思って。でもここはよく知っている所だし、と思いしばらくは自分で親を捜すのです。でも、限られたスペースの中だし、すぐ見つかるはずなのに、全然見つけられないのです。

すると心の中で不安がどんどん成長していくのです。そしてついに不安がド〜ンと自分の上に乗っかって、もうどうすることも出来ず泣き出します。すると近くにいたおじさんなりおばさんなりが助けてくれて、親のもとに行けるのです。

何にも知らない所で迷子になることもありますが、大体は知っている所で、慣れた所で迷子になりました。知らない所では親にしっかりついて行くから案外迷子にならないのです。

失われた者とは、何か勘違いしてしまい、本当の道から外れ、迷子になってしまった人のことを言います。

どんな人が道から外れ、迷子になった人なのでしょうか?それは、心に喜びのない人。心の底からの安心感がない。死んだ後の世界に対する保証がない、天国に対する備えが出来ていない人のことであります。

死んだ後のことは誰もわからない。私は以前はそのように思っておりました。しかしここに、この世界をお造りになった方が、死後の世界についても明確に語って下さり、示して下さる書物があるのです。その書物を通し、天国への道が示されているのです。

迷子になった子どもは子どもで大変です。不安と戦いながら必死で親を探すのです。そして親は親の方で必死に子どもを捜すものです。貴重な時間を割き、労力を惜しまず、子どもを捜しつづけます。

主も、迷子になった私たちを探し出すために、本当に大きな犠牲を払いました。それが十字架です。

主は、死というタイムリミットに怯えている私たちのために、怯える必要のない、本当の道をしめすために、御自身の命を犠牲にし、十字架にかかり、正しい道、いのちの道、喜びの道を示して下さったのです。

私たちは主イエスが、私たちの代わりについて下さった十字架を信じることで、天国への道が開けることを知るのです。この道に戻った時の私たちの安心感と言ったら、本当に肩の荷がすっと下りて、大きな安堵感を覚えるものです。そしてこの十字架こそが、私たちの本当の歩むべき道であることを確信するのです。

ですから、この喜び、初めて感じる人としての喜びの道を見出したのです。彼は、これから後、迷わずイエスさまに従う道を選び取ったに違いありません。

今、主は「あなたのために私は来たのだよ」と言われます。そう言われた私たちは主にどのように応えますか?

主に従うか、自分の欲望のままに生きるか。当然主に従って行きたいですよね。

 

主の十字架を覚え、自分に与えられた十字架を担って歩く時に、本当に大きな感動と喜びある人生を送ることが出来るのです。

この決断を下すその時に、私たちは、私たちのための「救い」の訪れを感じるでしょう。