喬木教会説教
2002年5月5日
宮を清める
ルカ19:45〜48
19:45 それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで商売をしていた人々を追い出し始めて、46 彼らに言われた。「こう書いてある。
『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』
ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。」
47 毎日、イエスは境内で教えておられた。祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀ったが、48 どうすることもできなかった。民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたからである。
最近、イスラエル軍によって聖誕教会が破壊されていること、これには悲しみを覚えますが、神殿はとても神聖な場所です。特にそこにおいて神さまのご臨在に触れようとする人々にとっては、侵す事の出来ないようなものです。
イエスさまが堂々とエルサレムに入城し、最初に行った所は神殿であったようです。神さまを第一にして生きているお方にとっては、何よりもまず神殿に行くことは当然の行動となるのでしょう。しかし、そのイエスさまの目にとまったものは、とても信じられないような光景であったのでしょう。いつも柔和に見えるイエスさまですが、ここでは激しくその感情をあらわにしておられます。神殿において商売をしていた人々を追い出すのです。
当時、ユダヤ人は三つの税金に悩まされていたそうです。ローマ皇帝に納める税金、領主に納める税金、そして神殿に納める税金です。しかもそれらの税金は、所得税とは違い、給料に関係なく額を定められていたり、収入のない家族の分まで払わされたり、一般民衆はかなり貧しい生活を強いられていたことでしょう。
それにしても、おかしいのが神殿税ですね。ローマ帝国に苦しめられているのだから、同じ民を救うためには税金を軽くするとか、無しにするとか、何かしらの手段をとってもおかしくないはずなのに、神殿は神殿でしっかりと税を納めなさい、という態度をとっているのですから。その額も、二日分の賃金だったそうです。二日分の賃金を半年に1回納めていたそうです。
さらにおかしいのが、今日イエスさまが追い出した商売人たちです。2主類の商売人がいたそうです。
1つ目は、両替人。当時は幾つかの国の通貨がパレスチナでは用いられていて、どこででも、どの通貨でも使えたそうです。ところが、神殿において通用する通貨は1つだけ。神殿税を支払おうと思ったら、神殿用の通貨に両替しなければならなかったのです。そこで両替人が登場するわけです。そしてこの両替人が両替をする際に、あれやこれやと手数料を上乗せし、随分多額なお金を請求をしていたのです。ですから、両替人は大もうけです。
2つ目は動物を販売する人々。神殿において捧げられる動物は、傷やシミがない動物でなければなりません。そのために、動物を審査する係りが神殿にはいたそうです。動物はどこから連れてきた動物でも捧げることが出来たのですが、神殿内で買った動物でないと、何かしら審査に引っかかり、捧げることが出来なかったそうです。そのために、神殿内の動物販売は大繁盛です。ひとつがいの鳩を外で買えば1シリングにも満たないのに、神殿内で買えば15シリングしたそうです。
そしてもっともっとおかしいことがありました。
これらの販売人は「アンナスの店」と呼ばれていたそうです。「アンナス」という人はその時の大祭司です。ヨハネ福音書に登場しますが、イエスさまが捕らえられてまず連れて行かれたところです。
どういうことかというと、不当に儲けている人々は全てアンナスという大祭司の下で儲けているのです。ということは、ただでさえ税金で苦しんでいる同胞の民を、さらに神の名を用いて苦しめているのが祭司である、ということなのです。
おかしいことだらけでしょう。何でそんなことが通用するのだ?と首をかしげたくなるような社会ですよね。それでも、一般民衆は泣き寝入りせざるを得なかったのです。それが当たり前の社会だったのです。
神さまを悲しめ、人々を苦しめる、それが常識であり、そのあり方が認められていた。でもそれは時が変わり、今のこの日本において見ているから「おかしいことだ」と誰もが言えて、思えることであります。
であるならば、私たちも周りにも「おかしい」とか「変な習慣だ」とか、時と場所が変われば思われる、言われるようなことがないだろうか?
そう、おおまかに言えば、全てが変わってくるかも知れない。だから、永遠に変わらない神さまとのかかわりにおいて考えて頂きたい。
救われている人が本当に少ない日本人社会では、聖書においては決して「当たり前」ではない事が当たり前とされてしまう現状があります。
私たちは、御言葉に立つものですから、自分の生活を顧みて、本当に神の前で「当然」と思われる行動をとりたいものです。
では、神さまの前に「当然」と言われる歩みをしてきたイエスさまは、この「おかしい」状態に陥っていた神殿を見た時に、どうしたでしょうか?いつも柔和で優しいイエスさま。この状況を見ても、優しく人々を諭していたでしょうか?いいえ。全然柔和そうではありませんでした。
神殿で商売していた人々を追い出し始めたのです。他の福音書を見ると、縄を作ってとか、台をひっくり返してとか、とても荒っぽく追い出していたようです。
いつも柔和な、優しいイエスさまがなぜこのような激しい行動に出たのでしょう?理由が1つ。示されています。
「『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』」
祈りの家であるべきところを、強盗の巣にしているから、だから激しい行動によってでも、彼らを追い出したのでした。
このようなこと、今の時代で、聖書の記事として見る私たちには当然のことかも知れませんが、現状を当たり前とし、それを常識と思って行っていた人々にとっては驚きの事件ですよ。信じられないようなことをして、それで神殿を守っているのです。
神殿を守るためには、どんな人にも笑顔で接しながら、という手段もありますが、それは神殿内が本当に整えられてからでしょう。神殿が侵されているのに、満面の笑みでそれを容認することは、神の義に反していることであったのです。であるならば、「19 知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」(1コリント6:19、20)と言われている私たちの神殿も、時にはそれほどの激しさを持って、清める必要もあるのではないでしょうか。
「ホーリネス信仰は厳しい」という言葉を時おり耳にしました。また、ある人は「宗教を持っていたら自分の人生は楽だったろうなと思う」と言っていました。両方とも逆の立場からの言葉ではありましょうが、同じことを言っていて、誤りであると思います。世の宗教はわかりませんが、聖書において言われているキリスト教は、逃げ込むためのものではありません。ですから、キリスト教に隠れて楽が出来るなんていうことはありません。また、「厳しい」という逃げの言葉もあてはまりません。何でも極めようと思えばそこには努力や節制は必ず必要なものなのです。
主が求めている道、これを今の時代には合わない、厳しい、と言うということが、後の時代から見た「おかしい」行動になることを覚えたいと思うのです。主に対する思いが強ければ強いほど、主の求めておられる道でも喜びと勇気を持って進んでいけます。逆に、主に対する情熱がなければ、今の時代の常識と聖書を測り、妥協点を見出しては楽な道を選び取ろうとします。
私たちは主の恵みにより、この体を聖なる宮、神殿としていただきました。主がその情熱のゆえに商売人たちを追い出したように、私たちも、自分の内を確認し、追い出すべきものを追い出せるよう努力をしていきたいと思います。
イエスさまには懸賞金がかけられていましたから、子ロバに乗っての入城もヤバイことですし、ましてや神殿の商売人、大祭司の息のかかった連中を追い出すなんてことはさらにヤバイことでしたが、世の常識を完全に打ち破った行動をとりました。その結果どうなったのでしょう?
祭司長や律法学者にすぐに捕らえられる。はずだったのですが、常識を破って神のみ旨を行ったので、結果も常識をかなり破っておりました。「民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていた」というのです。そのため、イエスさまを狙う人々も手出し出来ませんでした。
イエスさまの行ったことは、とても過激な行動でした。この過激さは、人によってはもうイエスさまとは関わりたくないと思わせるに十分なものでもあったでしょう。しかし、それ以上に、常識から解放され、何ものにも捕らわれない自由さを持ち、それでいて神さまの義を現すこの姿に人々はひきつけられたのです。
このイエスさまが私たちのために十字架につき、そして私たちを常識に限らず、あらゆる罪から救い出してくださったのです。このイエスさまを信じる時に、私たちは解放されるのです。そして解放された姿を通して、周りの人々に神さまを示すのです。
イエスさまを信じ、解放された姿こそがイエスさまの香りを放ち、この身をもって神さまを示します。そのためには、体の内に巣くう罪を徹底して追い出さなければなりません。この罪は時に常識、あってあるもの、という姿をとって私たちに近づいて参ります。決して惑わされることないように、常に御言葉に立ち、主のための体を整えて参りましょう。