喬木教会説教
2002年5月12日
主の権威
ルカ20:1〜8
1ある日、イエスが神殿の境内で民衆に教え、福音を告げ知らせておられると、祭司長や律法学者たちが、長老たちと一緒に近づいて来て、2言った。「我々に言いなさい。何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか。」3イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねるから、それに答えなさい。4ヨハネの洗礼は、天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。」5彼らは相談した。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。6『人からのものだ』と言えば、民衆はこぞって我々を石で殺すだろう。ヨハネを預言者だと信じ込んでいるのだから。」7そこで彼らは、「どこからか、分からない」と答えた。8すると、イエスは言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」
何か新しいことを行う時には、以前の事例を見ながら研究するのが一番良いことのように思います。しかし、事例にこだわりすぎると、「前例がありません」と言って先に進めなくなることがあります。「前例」がないからこそしていかなければならないことも多々あるわけですが、その点のバランスをとることは、意外と難しかったりするものです。
イエスさまに残された時間はわずかです。その中で、自分の使命を守るべく、イエスさまは神殿で人々に教えています。福音を伝えています。そこに祭司長、律法学者、長老たちがやってきてイエスさまの働きを妨げようとします。
もし時間の期限があれば、その期限内で出来るだけ有益なことをしたい、と思うのが私たちの普通の思いではないでしょうか。イエスさまはご自分がこれから十字架につけられる、ということを知っておりました。残された時間、期限がもうすぐであることを知っておられたのです。では、イエスさまは残された時をどのように過ごしたのでしょうか?
主は「神殿の境内で民衆に教え、福音を告げ知らせて」いたと記されております。残された時間、有意義に過ごしたいと思ったその行動は、人々に教え、福音を伝えることでありました。
そこに律法学者、祭司長、長老たちがやってまいります。彼らは本来、人々を正しく教え、福音を伝えるべき立場にある人々でした。ですから、イエスさまがされていることを手助けしてあげるべき立場の人々です。
その彼らが来て、イエスさまに聞きました。「何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか」。まるで手伝う気はないようです。それどころか、イエスさまのお働きを邪魔しよう、止めさせようという魂胆が見えます。
この時のイエスさまの気持ちはどんなだったでしょうか。自分が大切なことを行っている。それが邪魔された。普通なら怒るところですね。イエスさまは怒ったでしょうか?
私はここでイエスさまがムッとしたり、怒ったり、嫌な気分にさせられた、というようなことはなかったのではないかと思うのです。逆に、これは形式に捕らわれ、自分の権威、権力だけに執着している彼らが罪を悔改める機会になるのではないかと期待するような場面ではなかったかと思えるのです。
イエスさまはあくまでも教えること、福音を伝えることに神経を集中させているのです。こんな時に多少の批判をされ、邪魔をされたからといって、自分の使命を忘れて何とか彼らを撤退させようと考えるでしょうか?それよりも、彼らにも福音を伝え、彼らにも神の真理を教えたい、そう思うのではないでしょうか。ましてや、イエスさまは愛のお方で、全ての人が救われることを望んでおられるのですから。
ですから、イエスさまは彼らの質問に対して、質問をし返しました。「では、わたしも一つ尋ねるから、それに答えなさい。ヨハネの洗礼は、天からのものだったか、それとも、人からのものだったか」。
これは、質問した者にとっては、自分の問題点を明確にするための、非常に知恵に富んだ質問でした。この質問を通して、彼らはバプテスマのヨハネの権威について考えざるを得なくなるからです。彼の働きは偉大でした。多くの人々が神さまに対する備えをしたのです。ですから、人からの力でこの働きをすることは当然出来ません。彼はまさに天からの者でありました。しかし、その天から送られてきた彼の結末はどうだったでしょう。牢獄に入れられ、くだらぬ約束のために首をはねられてしまうのです。天からのものは、人間の間では批判され、踏みにじられ、ついには潰されてしまうのです。
そしてイエスさまも確実にその道をたどろうとしているのです。もうすぐ十字架に付けられる。人々の手によって殺されてしまう。現に今、あなた方は私をその手の中で握りつぶそうとしている。天からの権威は人々の前でそのように扱われるのだ。イエスさまはそう語っているようです。
この質問を受けた祭司たちはどうしたでしょうか。一生懸命答えを考えました。人の目を恐れながら考えたのです。そして彼らは答えました。「どこからか、分からない」。
祭司長や律法学者たちの間違いは、自分の前に置かれた問題に対して、正面から取り組まなかったことであります。彼らがこだわったのは、形式、自分の権威、対面上のことだけであります。その思いは神さままで達しておりません。長い時間かけて築かれた形式主義のかたまりには、神の知恵に満ちたこの質問が、自分を悔改めに導き、神の子とされる道を理解することが出来ないのです。
聖霊の導きは、時に私たちの理解を超えた働きへと私たちを駆り立てるものです。その点において、私たちは従順に、神さまの導きに素直でありたいと思うのです。
問題が生じた時、選択を迫られた時、決断の時、神さまの導きを求めるものでありましょう。そのためには、御言葉によって常に心をやわらかくし、決してガチガチに固めないことです。
私たちが形式主義に陥る罠がここに記されているように思います。「民衆はこぞって我々を石で殺すだろう」。彼らは人を恐れたのです。
私たちは誰しも、人からは好かれたいと思います。ですから、人から理解されないようなことは出来るだけしたくない。人から受け入れられることだけをしたい、と思うものです。そんな思いを満たすのが「形式」なのです。これさえ守っていれば、人々と問題なく平和に過ごしていける。というものです。ですから人と会えば挨拶もしますし、天気の話しをします。どこに行ってもある程度の形式を知っていれば、礼拝も捧げることが出来るのです。
ですから、形式は決して悪いものではありません。この形式がないと無秩序にもなるのですから。しかし、形式に縛られ始めると、そこには神さまが入り込む余地がなくなってしまうのです。そして人は人を恐れるようになるのです。散々人々を見下し、横柄な態度を取り続けた祭司長や律法学者でさえ、その判断の基準が人々から除外されないように、という所におかれているのですから。
逆にイエスさまは、人々が恐れている祭司長や律法学者を恐れてはいませんでした。イエスさまが恐れていたのは、天の父なる神さまお一人だけです。ですから、堂々と彼らに問いただしています。そして「わからない」と答えた彼らに、「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい」というのです。
イエスさまにとって、彼らの質問がどうこうは関係なかったのです。彼らがイエスさまの質問にちゃんと答えるなら、彼らの魂が救われ、さらに彼らの答えを通して民衆もさらに深い理解を得ることが出来たことでしょう。しかし、彼らは人を恐れ、答えられなかった。イエスさまはとても空しい思いをしたのではないでしょうか。
神さまのみを畏れるイエスさまが一番悲しむことは、私たちが神さまを第一と出来ない時ではないでしょうか。
様々な人間関係、様々な生活状況。その中で忙しく動き回る私たちですが、その中で神さまよりも人の顔色を伺い過ぎてしまったり、自分の欲を優先させてしまったり。
私たちはあくまでも、本当に畏れるべき存在である主を前にして、その上に生活を成り立たせてまいりましょう。
イエスさまは神さまのみを畏れていたため、とても強く雄々しく歩まれました。その歩みは十字架にまで及ぶのです。主がこのような模範を示して下さったのですから、私たちもその御足の跡を辿ってまいりましょう。