喬木教会説教
2002年5月19日
預言の通り
ルカ20:9〜19
9イエスは民衆にこのたとえを話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。10収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。11そこでまた、ほかの僕を送ったが、農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、侮辱して何も持たせないで追い返した。12更に三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した。13そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』14農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』15そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。16戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」彼らはこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。17イエスは彼らを見つめて言われた。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。
『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。』
18その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」19そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた。
妻の実家からメールが送られてきます。娘が朝起きるとまず祖父の所に行くそうです。部屋に行くとまず、「オハヨー」と言うそうです。そしてお菓子をもらう。そうすると娘は「アリガトー」と言うそうです。そして口に入れる。「オイシー」と言うそうです。現金な子で、お菓子さえもらえれば何でも言う、という感じですが、その姿を見て、よく躾が出来ていると感心してくれました。
会堂で教えているイエスさまのもとに来た律法学者、祭司、長老たちですが、彼らの質問には答えない、と言われてから、たとえ話をいたしました。それが今日の箇所ですが、この中に、彼らのした質問、「誰の権威によって」というものに対する答えが含まれております。
最近(に限らないかも知れませんが、報道される多く)のニュースは「信じられない」という言葉が出てきてしまうほど、人間の醜さが露骨に表れる事件が多いように思います。それら事件は全て、人間の欲望に従順に従った結果生まれてくるようなものばかりです。それらの事件に嘆きながら、野次馬的好奇心で見ている自分自身もどうかと思いますが...
「躾(しつけ)」という言葉があります。人は躾を通して整えられ、その身が美しくなることです。なぜこのような言葉があるのか?私たち人間は残念ながら、躾なくして美しい人間にはなれないからであります。
国によっては、「人はもともと罪人である」という観点から教育制度、社会制度がなりたっています。ですから、そのような国は躾に重点をおきます。
日本の社会は、「人はもともと良い存在である」として考えられているところがあります。そこにさらに、「自由」、「プライバシー」という言葉だけが入り込み、昔ほど躾に力が注がれなくなっているようです。ですから、人の抑えられなくなった欲が簡単に爆発(キレル)して、信じられないような事件が起きているような気がいたします。
人の本来の姿は、やはり美しいものではないのです。今日の聖書箇所に出てくる農夫たちもその姿をよく現しているのではないでしょうか。
土地を借りている。しかも、ぶどう園を整えたのはその地主。自分たちはぶどうを作ることにのみ集中出来る環境を与えられている存在。土地を貸してくれた主人には恩こそあって仇、恨みはないはずの人々です。
それだけ素晴らしい環境が与えられているにも関わらず、彼らは自分の欲を抑えられず、レンタル料を請求されると、それを踏み倒し、それどころか取り立てに来た人々を半殺しにしているのです。信じられないような事件です。
こんなに素晴らしい環境を与えて下さった。こんなに素晴らしい収穫を得させて頂いた。ならば当然、それなりのお礼をして良いでしょう。いや、その土地を借りているのであれば、当然支払うべきものは支払うべきでしょう。それが出来ないのはなぜですか?
本当の意味で躾がなされていないからではないでしょうか。私たちはどうですか?自分で今の環境を作り上げたのですか?自分で今の収穫を作り上げているのですか?そこには本当の主人、収穫の一部をお返しするべきお方は存在しないのですか?
躾がなされさえすれば、挨拶するのも当たり前、お礼をするのも当たり前、主人に収穫の一部をお返しするのもあたり前になるではないですか。私たちの収穫は、何もお金だけではないですよね。人間関係も、社会的な働きも、収穫も時間も、全てが私たちの収穫です。
生まれながらの姿では、決してそれらを神さまにお返しする、などという思想は生まれてまいりません。主の訓練を受けて、クリスチャンのとしての躾を身に付けていくものでありたいと思います。
主人は貸した土地の収穫の一部をレンタル料として当然請求されるわけです。現在であれば、払うべきものを払わないのであれば、そこには当然のように延滞料が加算されていきますよね。そしてどうしても支払わないとなれば、怖い取り立て屋がやってきます。もう社会的にも信用をなくし、何も出来なくなってしまうわけです。
しかし、ここで小作人に土地を貸した主人の対応はどのようなものであったでしょうか。繰り返し繰り返し、自分の僕を送り、収穫を納めるように促しております。どうも、僕は優しい者ばかりのようです。決して権力を振りかざして「さぁ!!払え!!」という取立てをしない感じですよね。だから袋叩きにあって、侮辱されて追い出されてしまっております。
そして主人は最後に自分の愛する息子を送る、と言い出すのです。今まで散々自分の僕が酷い目にあって帰って来ているのに、そこに自分の大事な息子を送ると言うのですよ。私は正直なところ、この主人は狂っている、と思いましたよ。
でも、しばらくして、この主人の気持ちがわからなくもないような気にもなりました。というのも、国の外交などを見てもわかりますように、相手を重要な人物と判断すれば、重要であればあるほど、こちらも地位の高い者を送るではありませんか。先週も話しましたが、神さまはあくまでも全ての人が救われることを望んでおられますし、全ての人を本当に愛し、重要な存在として扱ってくださっているのです。
酷い仕打ちをする小作人に対しても同じでした。そんな彼らでもやはり大切な存在。こちらがそれだけ相手のことを思っているとわかってもらえれば、向こうも今までのことを悔改めて、正常な関係を築けるようになるのではないかと、ここに希望をおいて主人は愛する息子を送ったのです。
またここは、前の箇所で質問された、「何の権威、誰から与えられた権威」ということをイエスさまが示しているところでもあります。どのような人にでも愛を持ち、その人々から正当な収穫物を得るために遣わされて来た、神の愛する独り息子である、ということです。
神さまからあくまでも大切な存在、重要な存在として、今度は私たちが神さまに対しての収穫物を納めるのです。私たちにあくまでも紳士に接して下さる神さまに対して、本当に失礼がないようしたいですね。
イエスさまは私たちに例えを語り、奇跡を行って下さり、今までに何を語って下さっていたのでしょうか。やがては収穫を納めるべき最後の時が来る、ということであります。注意してみると、イエスさまの語られることは全て、この最後の時に向けて語られていることを私たちは見ることが出来ます。
もし、ぶどう園の農夫たちのような振る舞いを続けているのであれば、主はやがて来られて、農園を他の人々に与えると言われます。この通りに、一度イスラエルは滅び、現在でもその所有権を巡っての紛争が絶えておりません。しかし、そのことよりも、本当にイエスさまが来られる時のことを私たちは考える必要があるでしょう。
主人はどこか遠い所に住んでいるのではなく、あくまでも旅に出ているというのですから、やがては帰って来られるのです。そして裁きを行われるのです。だからイエスさまは私たちがその裁きにあっても大丈夫なように、救いの道を備えて下さっているのです。しかもその道を備えるために、自分の命を犠牲にして下さったのです。
農夫たちは、この愛する独り子を神殿の外に連れ出し、殺しました。しかしその殺された独り子が、隅の親石となったのです。基礎をなす石です。これなくして建物は成り立たないというものです。ここから、頭の石とも言われるようになったそうですが、神殿という神の宮の貴重で、なくては造れない部分となってくださったのです。
ですから、本来罪人で、欲に支配されて生きている私たちが、イエスさまという親石のゆえに、この体が聖霊の住む宮として、神殿として整えられるようになったのです。
やがて、終りの時が来ます。盗人のように来る、と言われたイエスさまの約束が実現する時が来ます。この時を考えるのであれば、私たちは神さまの前に正しい生き方をせざるを得ないのではないでしょうか。
主人は収穫を私たちに求めておられます。この収穫とは、イエスさまを主とし、従う私たちが結ぶ実のことです。私たちはイエスさまにつながっていればいつまでも残る実を結ぶと約束されているからです。
主は預言の通りに捨てられ、そして隅の親石となって下さいました。そしてまた預言どおり、三日目に復活し、天に昇り、約束通り、聖霊という弁護者を私たちに与えて下さいました。
今又、預言どおり、聖霊を受けて、地の果てまでも主の証人として遣わそうとしておられるのです。
ペンテコステのこの日。私たちは預言どおりに全てが成り、この預言のうちに自分が生かされていることをもう一度確認し、主から遣わされる者としてのプライドを持ち、主との交わりの中で歩ませていただきましょう。