喬木教会説教
2002年6月2日
共に立たれる主
ルカ20:27〜40
27さて、復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。28「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。29ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。30次男、31三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。32最後にその女も死にました。33すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」34イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、35次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。36この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。37死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。38神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」39そこで、律法学者の中には、「先生、立派なお答えです」と言う者もいた。40彼らは、もはや何もあえて尋ねようとはしなかった。
ポイント1 御言葉の捕らえ方には気をつけよう(28)
サドカイ派と呼ばれる人々は、「復活はない」と主張するグループでした。さらに、聖書としては「モーセ五書」と呼ばれる「創世記」、「出エジプト記」、「レビ記」、「民数記」、「申命記」のみを使用しておりました。確かに、詩編や預言書等には「死から救う」ということで復活をさすであろう言葉はありますが、モーセ五書には「復活」を意味するであろう言葉はないようにも思えます。
この彼らの聖書の読み方は神さまの意思を正確に受け取るものではありませんでした。その理由は、28節「先生、モーセはわたしたちのために書いています。」
「私たちのために」記されているものではありますが、それはそのことによって、神さまの栄光を現して欲しい、という神さまのためにも記されているものなのです。
聖書の言葉は、神さまから私たちに送られたものでありますが、同時に、私たちが神さまへの応答方法が記されているものです。それを「私たちのため」だけとして見ると、歪が生じてきまして、正しい形での信仰は築かれていきません。
神さまと私たち。この両者の交わりによって成り立っているのが聖書であることを覚えましょう。
ポイント2 神さまとの関係が最重要(35,36)
聖書を自分たちのためだけに適用しようとしていたサドカイ派の人々ですから、言葉の解釈方法、考え方も当然私たちの社会の基準に従って理解するようになりました。
「何度も結婚した女性がいた。復活の時は、誰がこの女性を妻にするのですか?」
確かにこの社会で何度も死別を経験した女性が、全ての人を前にして、もう一度結婚するように、と現世で言われたら困ってしまいますね。嫌いで分かれた訳ではないのですから。
だからサドカイ派は全くこの世の基準で神の国を考え、復活を否定しようとしているのです。しかし、この彼らの試みはなんと空しいものでしょうか。彼らの考えの中では、神さまと人という縦の関係より、人と人という横の関係の方が断然に太く、大きく、長くなっているのです。私たちの信仰は十字架によく例えられますが、横棒が太く長いもので、縦の棒が細く短い十字架があるでしょうか?本当に不細工な十字架になってしまいますね。
「次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々」は、「天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子」となるのです。それは、縦の線が太く大きなものになり、その中に横の線も含まれてしまうというような、一本線の関係です。確かに、神の国に入ったのであれば、もう十字架が必要ないのかもしれませんね。そこには縦の一本線だけのようです。
そして神の国がそうであるのならば、私たちの今の社会においても、縦の関係、神さまと自分との関係を太く、大きく、頑丈なものにしていけば、自然と周り(横の人間関係)も修復され、祝福されていくのではないでしょうか。
私たちにとっては、横よりもまず縦の関係を正しいものとすることが求められているのです。
ポイント3 同じ場に立って下さる主を信頼しよう(37,38)
私たちが縦、神さまとの関係を修復するにあたり、どのようなことがなされたのでしょうか?
いきなり聖書が開かれ、教会の神学とか教理とか呼ばれるものが朗々と説明され、それらを全て理解することが求められたのでしょうか?教会のあり方を教わり、その通りに行動できるように訓練されて、それでようやく神さまとの関係が修復されるようになったのでしょうか?
違いますね。
本当に罪しかしらなかった。神さまなど全く知らなかった私たちです。そして神さまを悲しませ、怒らせるようなことしかしてこなかった私たちです。この私たちの所に、神さまの方から「関係を修復してください」と腰を低くして申し出て下さったのです。
そのしるしが神の子が人となり、そして十字架上で死ぬということでした。罪のない方が、私たちの罪を背負って死んで下さった。私たちが知ろうと知るまいと、もうその事実が歴史的に行われているのです。
神の子であり、知恵と力に満たされた方が、人と同じ姿をとって来て下さった。本当にへりくだった、謙遜な姿勢です。
今日のサドカイ派に対しても同じことをしているのです。彼らはモーセ5書と呼ばれる聖書しか持ち合わせていなかった。学者や彼らに対抗するグループであれば、彼らを「不十分だ」と言って足りない所を攻め立て、力で自分の意見を納得させたでしょう。
しかしイエスさまは、サドカイ派と同じ立場に立ち、モーセ五書のみから、復活があることを示し、彼らを諭したのです。
私たちのために同じ場に立ち、そして知恵を与え、目を開いて下さるのが私たちの主、イエスさまです。
私たちの理解が不十分なのは仕方のないことです。そのために主を悲しませることも行ってしまうこともあるでしょう。でも、何よりも神さまが悲しむことは、私たちが主を頼りとしないことです。私たちは主を試みるために質問したりする必要はありません。でも、わからないことは素直に聞いてみましょう。
サドカイ派の人々にでさえも、同じ所に立ち、親切に説明してくださった主です。主を愛する私たちにはなおさら丁寧に私たちの所に来て下さり、私たちの理解し得る形で道を示し、神さまの御旨を示して下さることでしょう。
主と共に生活するものでありましょう。