喬木教会説教
2002年6月9日

律法主義の罠

ルカ20:41〜47

41イエスは彼らに言われた。「どうして人々は、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。42ダビデ自身が詩編の中で言っている。

『主は、わたしの主にお告げになった。

「わたしの右の座に着きなさい。

43わたしがあなたの敵を

あなたの足台とするときまで」と。』

44このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」

45民衆が皆聞いているとき、イエスは弟子たちに言われた。46「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣をまとって歩き回りたがり、また、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む。47そして、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」

 

序論 

 

 

概論

主はいよいよ十字架を目前としています。もう残された時間はわずかです。この後十字架につけられてしまうのです。残された時間、イエスさまは出来るだけ人々が神の国を理解し、メシアの来られた意味を伝えようとしました。

 

ポイント1  聖書が語るメシアを知れ(42,43)

知者を装い、主を陥れようとしていた人々に対して今度はイエスさまが質問をする。

ダビデがメシアを主と呼ぶのに、なぜメシアを「ダビデの子」と呼ぶのか?と。

確かに、子どもに対して「主よ」とは誰も呼ばない。

律法に通じ、預言に通じていて、そのことのゆえに人々に権威を振りかざしていた律法学者、ファリサイ派、サドカイ派、祭司たち。彼らはこのイエスさまの質問に対して何にも答えることが出来なくなりました。

新約の時代に生きている私たちは答えることができるでしょうか?

 

イスラエルにとって、ダビデ王は偉大な王様でした。周辺諸国を支配し、イスラエル王国を確立した王様です。

メシアがダビデの子孫から出る。預言において語られていることです。ですから、肉的には確かに「ダビデの子」なのです。預言の成就のためには、人々はメシアを「ダビデの子」と呼んでおかしくないのです。

ところが、あくまでも肉的にしか考えない場合は、政治的にイスラエルを解放し、諸国まで支配する王様を期待している、ということになるのです。ローマ帝国に支配され、プライドを傷付けられている民にとっては、政治的メシアが必要でした。だから、霊的なメシアのことを考える余地をもっていなかったのです。

そこに主がこの質問を投げかけたのです。人々は答えに困り果てます。

 

私たちはメシアをなんと呼ぶのでしょうか?メシアをどのように捕らえているのでしょうか?

「メシアを苦しい時に救って下さるお方」、「メシアは祈りを聞いて下さるお方」等と捕らえていますか?これらは正しい捕らえ方ですね。でも十分ではありません。これだけならば、一般のご利益宗教と同じになってしまいます。そうであれば、「ダビデの子」と言う当時の人々と同じ段階だ、ということになってしまうのです。

私たちにとってのメシアは、ダビデの主であると言われております。それは、王の王。主の主という意味です。ですから、私たちにとっては、従うべきお方。私たちの最大の敵()でさえも滅ぼすお方である、ということです。

このイエスさまを主として、メシアとする私たちは、ただの「苦しい時の助けて」だけではなく、どのような時でも、主の命令であれば「従う」という信仰を持っていなければなりません。

「従う」ことを避けて、「肉的」なメシアを望んでおりませんか?

私たちは王の王、主の主に従う者です。

 

ポイント2  律法主義、形式主義に警戒せよ(46)

律法主義とは何でしょう?決まりきったことをすることで満足してしまう私たちの心です。

当時の指導者たちは、聖書の言葉を操りながら、自分の栄誉ばかりを求めていました。そして形式だけを重んじて、肝心な中身を忘れているのです。主が本当に喜ばれることを忘れ、記された文字の律法に縛られているのです。そしてそのことが人々から賞賛され、それで満足しているのです。

 

毎週聖日の礼拝を守る。献金する。クリスチャンらしく歩む。

これらのことは大事なことでありますが、もしこれが形式だけを守っていることになるのであれば、私たちは気を付けなければなりません。「やもめの家を食い物」にすることはないと思いますが、彼らと50歩100歩になってしまうのです。

先日もある方とお話をしましたが、形式はもちろん大切ですよ。しかし、形式に縛られ、形式によって人を裁いたり、形式を守ることのみに満足を覚えるようになったのなら、それはもう気を付ける所に来ております。

私たちが礼拝し、お捧げものをし、主に従うのはなぜですか?

主と生ける交わりを持ち、主が求めておられるからでしょう。

主は私たちの心に律法を授けてくださいました。文字は人を殺します。霊は人を生かすのです。

形式を尊重しながらも、心に頂いた霊によって生き生きと、意味のある礼拝、クリスチャンとしての歩みを続けましょう。

 

ポイント3  裁きの座を覚えよ(47)

21章に入りますと、終末についての預言がなされますが、ここでも最後の裁きのことが語られております。

この世の人々から賞賛されることを好み、やもめを食い物にし、神の権威を自分のためだけに用いるような人々は、人一倍厳しい裁きを受ける、と言われるのです。

 

誰だって賞賛されるのは好きですよね。誰だって自分のしたいことが出来れば幸せではないですか。世の中では好き勝手に生きている人の方が得しているように見えることも沢山ありますよね。なのになぜ私たちは、自分のやりたいことを我慢し、人から賞賛されるようなことを隠し、主に従わなければならないのでしょう?

それが信仰者の姿だからですか?神さまが求めておられるのだから仕方ない。確かにその通りですよね。でも、それは理屈では理解出来ても、心は苦しくならないですか?

 

私たちが自分の体にムチ打ってでも、主の御心を求め、それを行うのは、私たちには裁きの座があり、私たちの行ったことに対して報いがあるからではないですか。

もし私たちの世界が死んでおしまいであれば、好きなことをしたもの勝ちですよ。法律なんてあってないようなものでしょう。守るだけ損ですよ。聖書の言葉など、聞く必要ないですね。死んでおしまいなら神も存在しませんよ。

でも神は存在する。今も生きて働いておられる。私たちはそのことの証人ですよね。

神さまが、今も生きて働いておられる。そしてその神さまが、私たちが死んだ後で、それぞれに報いを与えて下さるというのです。裁かれる、というのです。そのことが教えられているのですから、私たちは栄えの冠をいただくために、今の時間、永遠の中のほんの一時、この時に戦うのではないですか。

そして最後に報いがあることを知っているから、立派に戦い、世に勝利することが出来るのです。私たちは決して裁きの座を無視したり、忘れたりするべきではありません。

 

私たちのメシアは王の王。主の主です。ですから、私たちはこのお方が求めておられることを、実行しなければなりません。そして忠実に実行すれば、最後の裁きの時に「忠実な良い僕よ、よくやった」というお褒めの言葉をいただけるのです。

最後に報いをいただくためには、私たちは日々、主の御心を求め、その御心を行うしかありません。決して律法主義、形式主義にならず、生きて働かれる主と共に、日々の歩みをいたしましょう。