喬木教会説教
2002年6月16日

捧げものの意義

ルカ21:1〜4

1イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。2そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、3言われた。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。4あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」

 

礼拝のプログラムの中にはいつも「献金」という項目があります。この「献金」について考えたことはあるでしょうか?

 

イエスさまは今先ほどまで、宗教指導者と呼ばれる人々と論争をしておりました。そして彼らの上辺だけの信仰には十分気を付けよ、と弟子たちに注意したところです。そこに登場するレプトン銅貨2枚を捧げる女性。この女性と、上辺だけを整えようとする律法学者たちとの対比がなされているようです。

 

ポイント1  自分をささげることが礼拝であることを覚えよう()

律法学者は、儀式、形式を大切にし、それらを守ることで尊敬を人々から受けました。一方、今日登場する女性は、誰からも尊敬も賞賛もされておりません。逆に、「これしか捧げられず、申し訳ありません」との思いを持ちながら、自分の持てるものを精一杯捧げております。

彼女は2レプトン銅貨を捧げました。これは現代の価値で言うとどれくらいでしょう?聖書の後ろにある表を見てみますと、「最小の銅貨で、1デナリオンの1/128」だそうです。1デナリオンが1日の賃金ですから、1日を1万円と考えると、約78円が1レプトン。2レプトンで156円ですね。現代でもそうですが、これだけでは生活していけません。それでもわずかに持っている重要な財産。それを彼女は捧げたのです。

 

私たちはなぜ礼拝において「献金」をするのでしょうか?この献金の意味をどのように考えておりましたか?もちろん、この地上で教会を運営していくにはお金が必要です。そのためだけでしょうか?違いますね。

そもそも、礼拝とは私たちが捧げるべきものであることを覚えたいと思うのです。もともとの礼拝の意味は、尊敬や敬意、誉れを現す、捧げるという意味のものです。聖書の歴史を見てみましても、礼拝の度に捧げものをしております。

それでも、昔はお金ではなく、羊や牛、そして穀物などを捧げておりました。なぜ今はお金なのでしょう?

 

人々は神さまに捧げものをしておりましたけど、彼らが捧げていたものが何か、というと、彼らの生活を支える重要なものでした。自分の生活を支えるもの。自分の存在を生かすもの。これらをささげていたのです。

それが現在の「お金」に通じる訳です。ですから、自分の存在をかけて、献金をするのです。

また、自分をかけて献金するので、それが「献身」、身を捧げることになるのです。

 

そのため、礼拝に出ることの意味は、「自分はお金に支配されてはいません。富も、生活も、全てがあなたのゆえに成り立っておりますから、私はあなたを信頼して、自分の全てをお捧げしているのです。その証拠に、自分にとっては大事ですが、あなたに献身を示すために、このお金をお捧げします」となるのです。

 

「献金は信仰のバロメーター」とはよく言われる言葉ですが、これはその通りの言葉であることを覚えましょう。ある牧師は、よく捧げるクリスチャンの信仰がおかしくなるようなことは見たことがない、と言われました。神さまに捧げるべきものが礼拝、自分たちの体であり、その証拠が献金であることを覚えましょう。

 

ポイント2  神さまに対する信頼によって礼拝が成り立つことを覚えよう()

今日登場した女性は、誰からも誉められておりませんでした。しかし、神さま、イエスさまから誉められました。なぜでしょう?

人は誰でも信頼されるとうれしいものですよね。信頼のある人間関係はとても麗しいものです。それは神さまとの関係においても同じことであります。

彼女の捧げた額は少なかった。でも、それは彼女の全財産。それを捧げることによって、自分の生活はもう、あなたにお委ねいたします。自分の知恵、自分の努力、自分の財産には頼りません。あなただけが頼りです。この信仰を顕にしたのです。それは、神さまに対する信頼に他なりません。

 

なぜ、多く献金する人は信仰が安定するのでしょうか?それは自分の心が下手にお金に依存しなくなるからです。自分の生活は、神さまに頼るしかない、という所に常に立てるからです。神さまとの信頼関係が常に築かれているのです。だから、その信仰が安定し、結果、全ての面で豊な祝福をいただくことが出来るのです。

 

私たちは献金する時に、絶えず確認しましょう。「私はこの献金を、主に対する信頼として、捧げているのかな?」と。もし、習慣で捧げているだけ、であればそれはとてももったいない話しです。献金する。自分の大切なものを捧げる。そのことで神さまをより信頼することを体が覚えるのです。そして、その信頼で神さまとの交わりが深くなれば深くなるほど、私たちの信仰は祝福され、本当に恵まれます。

 

信仰者の歩みは、勝利者の歩みです。常に勝利をしていますか?

勝利が出来ない、と感じた時、それは神さまとの関係に支障があるときです。その障害物を捧げましょう。

神さまは、私たちの全生涯を贖い、導いて下さるお方です。本当にこのお方を信頼出来るのであれば、そのお方に全てを委ねようではありませんか。

 

ポイント3  日々の生活を礼拝としよう()

ローマ書12章1節にはこう記されております。「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。

自分の体を捧げることが、私たちの礼拝だ、というのです。

日々の祈り、朝の祈りの時に、私たちは全てを神さまに捧げていますか?自分を、自分の内にあるものを、自分の持っているものを、全て主にお捧げしているでしょうか?

 

イエスさまは全てを捧げておりました。ですから、語ることも、行うことも、全て天の父が求めていることを行いなしました。そしてそのまま、私たちのために、その身を十字架にまでつけて下さったのです。

私たちは今、イエスさまが全てを捧げて下さった、その愛のゆえに命を得、死から命へと移されているのです。

 

このイエスさまの命を頂いているからこそ、自分の全てを捧げてでも、主に仕えたいと思うのです。

だから、「日曜日だけ」なんておかしいでしょう。自分の言葉と行いが一致しないことになるのですから。私たちは日曜日、礼拝に来た。それは「私たちの日常の全ても、主よ、あなたにお委ねいたします」という信仰の告白ですよ。

 

レプトン銅貨2枚を捧げた女性は、本当にこれからの生活も全て、神さまに委ねなければ生きていけない状況にあります。それ程に主を信じ、信頼していたのです。

私たちがもし、そこまで主を信じきれない、というのであれば、一度自分のサイフの中にある全てを捧げてみましょう。本当に主を信頼することの素晴らしさを経験します。そしてこの経験が、私たちの信仰を強くするのです。

 

捧げもの。強制されてではない。神さまとの交わりのため、その中で恵みをいただくために、思い切って捧げていくものでありましょう。