喬木教会説教
2002年6月30日

大いなる約束

ルカ21:5〜19

5ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。6「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」

7そこで、彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」

8イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。9戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」

10そして更に、言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。11そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。12しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。13それはあなたがたにとって証しをする機会となる。14だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。15どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。16あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。17また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。18しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。19忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」

 

 先行きのわからない時代であるだけに、将来に対する不安をぬぐうことが出来ないですね。そんな時だからこそ私たちの心に安心感を与えてくれるものを捜してはいないでしょうか?

 

 イエスさまは現実に惚れ惚れとしている人々に対して、厳しいと思われる将来を告げました。それは、神の御言葉に立たない限り、本当に安心出来るものがないことを示しているようです。

 

1: 滅びない自分を持っていますか?()

当時エルサレムにあった神殿はとても美しく素晴らしいものであったようです。長い引用になりますが、ヨセフスの「ユダヤ戦記」という本に以下のような文があります。(バークレー著/聖書注解シリーズより)

「外から見た神殿の正面は、人々の心を奪い、目をみはらせるに充分だった。それはすべて重厚な金の板で覆われていたからである。朝日が昇ると、それはまばゆく照り輝いて、見る者は思わず目をそらさずにはいられなかった。まるで直射日光を受けたような感じだった。他方、初めての人が遠くから神殿を眺めると、それはちょうど雪をいただいた小山のように見えた。けだし、この部分に関する限りそれは虚飾ではなく、それはまさしく純白だった。」

 

神のために建てた建物。荘厳かつ偉大であるべきでしょう。そして神の宮であるだけに、全ての人がこの素晴らしさはいつまでも残るもの、そう信じていたのでしょう。ところがイエスさまはそれに対して「残らない」と言われたのです。人の夢をぶち壊すような、酷い言葉です。酷い言葉、で済めば良かったのですが

現実には、紀元70年頃ローマ軍に反発しつづけたユダヤの民は、ローマ軍によって滅ぼされ、エルサレムは陥落してしまうのです。その時には文字通り石の上に石が残らないほど、徹底的に蹂躙されたそうです。

110万人という人が死に、7千人という人が捕虜となった。神殿は破壊され、焼かれ、その素晴らしさはかけらも残らなくなったのです。

当時のユダヤ人たちには、この神殿がとても誇りであったでしょう。この誇りのゆえに信仰も保たれている部分があったのではないでしょうか。しかし、その誇りは破壊され、抹消されてしまいました。

 

現在の不況。この世の中で私たちは何を誇りにし、何を頼りに生きているのでしょうか?

今まで自分の存在価値を見出していた立場、肩書き、物、環境、時に健康、信念、それらのものが揺さぶられる時代に私たちは生きております。そうであるから、一般的にも今は「心の時代」と叫ばれております。本当に大事なものを私たちは忘れてしまっている、と言われるのです。

 

私たちが忘れているものって何ですか?私たちが本当に大事にしなければならないものって何でしょう?

現代人が忘れているもの。それは「自分自身」だと言われております。自分の本来の姿、本来あるべき自分が見失われ、便利な道具、美しい装飾、楽しい環境によって自分が誤魔化されているというのです。

 

先日ラジオを聞いていましたら、「自分が自分であることを止めること」これが良くないことだ、というリスナーからのメッセージが読まれておりました。確かにその通りでしょう。しかし、意地悪い私はさらに考えてしまうわけです。では「あなたは『自分』が何者なのか本当に知っているのですか?」と。「自分」がわからないのに「自分をやりぬく」ことはとても疲れることではないでしょうか?

 

聖書は、今の時代の人々にも呼びかけています。やがて、全てが崩れ去る時が来る。その時に備えて、本当の自分を取り戻し、本当に大切なものをしっかりと握っていなさい、と。

 

2: 自分の将来に目を向けよう ()

ユダヤ人の時代の捉え方(考え方)は大きく分けて三つでした。1つは「現在の時」。これは悪に染まった時代です。救いようがなく、滅亡するしかない時代です。そしてもう一つは「来るべき時」。これは救い主が世を治め、ユダヤ人が覇権を握る黄金時代です。ユダヤ人はこの時を考えていたので、ローマ帝国に支配されていることに我慢出来なかったのかも知れません。そして最後の一つが、二つの時の中間にある「主の日」です。

「主の日」、それは自分たちが救われるためのきっかけになる時ですから、ユダヤ人にしてみれば素晴らしい時なのですが、聖書の預言を見ると、その日は恐ろしい日であることがわかります。旧約の時代から、また新約聖書においてまで、その日が苦しみの日であり、天変地異が起こる、とても恐ろしい時であることが記されております。

そして、わたしたちの「救い」とは、この「時」における救いを指しているのです。

 

主は「惑わされないように気をつけなさい」と言われました。どのようにしたら惑わされないのでしょう?

情報をかき集めることですね。では情報を集めた所で安心できるでしょうか?出来ないでしょうね。情報にも色々な情報がありますからね。ですから情報は集めることと、それをどう判断し、処理、対処するか、ということが重要なのであります。そしてそれは、自分が何者であるか、自分の目的は何であるかを知っていなければ、情報を正しく処理するということは出来ないのです。

 

聖書の預言は100%成就しています。今までの歴史の中で、聖書において預言されたことは全てその通りになっているのです。聖書は永遠の時を支配する神さまによって書かれ、語られていますから、全て真実であり、その通りになっているのです。

そしてこの聖書が、今私たちにこれからの出来事について語っていてくれるのです。その内容は、この世の中はやがて滅びますよ。輪廻転生のようにくるくる回る世の中ではなく、または死んでお終まい、無になるよ、ということではなく、始まりがあったように終わりもありますよ、と語っているのです。

確かに一般的な理屈から考えてもその通りになるでしょう。では、私たちはその情報に基づき、どのような行動をとりますか?

 

聖書に基づく人間理解、自分を理解し、最悪の状態になることを避けるべきではありませんか?そうして救われる確信を持つことで、自分の将来が見えてくるのです。

 

ポイント3 神さまからの愛を受けること (18)

聖書は、私たち人間とはどのようなものであると語っているでしょうか?

それは神さまによって造られた最高の存在であると語られています。誰もが、天地が造られる前から愛されて、計画されてこの世に生まれて来た、というのです。ですから、誰一人、神さまの前に無駄な存在はないのです。意味があり、必要性があり、今のことの時、生かされ、この場に来ているのです。

ところが、聖書はさらに語っております。それは、私たち人間は全てが罪人である、ということです。罪とは犯罪も含まれますが、それだけではありません。道徳的にも、心の中で考えることだけでも、とにかく正しく清い神さまの思いに反することが全て罪であると言っているのです。

であるならば、誰一人神さまの前に自分の正しさを主張できる人がいない、ということになり、そして全てが罪人になってしまうのです。

 

清いものが汚れたものとどのようにして一つとなれるのでしょうか?罪という汚れがある限り、神さまという清いお方とは対峙することが出来ないのです。

しかし、神さまの私たちに対する想い、子どもを愛し慕う親のような想いは変わることがありません。そこで神さまは、人間の犯した罪という借金を肩代わりすることを決意されたのです。

どのようにしてでしょうか?「罪の支払う報酬は死です」と聖書には記されております。であるならば、死を支払わない限り、罪を帳消しにすることは出来ません。

それで神さまはご自身の独り子を世にお遣わしになりました。そして私たちの罪が支払うべき死を、この独り子に負わせ、この子を十字架にかけて死なせたのです。

人のために自分の子どもを犠牲にする。普通そんなことできないですよね。するべきでもないと思います。しかし、神さまにとって私たち、あなたの存在は、その独り子の命をかけるほどに重要であり、愛されている、ということなのです。

 

神は永遠の存在です。このお方が2千年前に十字架にかかり、私たちの罪の支払を代わりに支払って下さいました。今、私たちはこの独り子、イエスさまの十字架が自分のためであった、と信じ、受け入れるだけで聖書の言う救いを得られるのです。

 

あなたは愛されているのです。信仰と希望と愛、これはいつまでも残る。その中でも最も偉大なものは愛である。そう聖書に記されております。

私たちを癒し、私たちを生かすのは、この永遠に変わることのない愛です。神さまは信じるだけで、この愛を注いで下さり、私たちを滅亡の道より救って下さると約束してくださいました。

この愛をいただき、希望に満たされましょう。