喬木教会説教
2002年7月21日
過越し祭の準備
ルカ22:1〜13
1さて、過越祭と言われている除酵祭が近づいていた。2祭司長たちや律法学者たちは、イエスを殺すにはどうしたらよいかと考えていた。彼らは民衆を恐れていたのである。3しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。4ユダは祭司長たちや神殿守衛長たちのもとに行き、どのようにしてイエスを引き渡そうかと相談をもちかけた。5彼らは喜び、ユダに金を与えることに決めた。6ユダは承諾して、群衆のいないときにイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。
7過越の小羊を屠るべき除酵祭の日が来た。8イエスはペトロとヨハネとを使いに出そうとして、「行って過越の食事ができるように準備しなさい」と言われた。9二人が、「どこに用意いたしましょうか」と言うと、10イエスは言われた。「都に入ると、水がめを運んでいる男に出会う。その人が入る家までついて行き、11家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をする部屋はどこか」とあなたに言っています。』12すると、席の整った二階の広間を見せてくれるから、そこに準備をしておきなさい。」13二人が行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。
いよいよ主が十字架にかけられる前の日になりました。その前の日、それは過越し際というユダヤ人の三大祭の一つでありました。
ポイント1 導きの出どころに注意しましょう (3、13)
いよいよクライマックスです。イエスさまの生涯を終らせる最後の事件がここで起こります。イスカリオテのユダに「サタンが入った」のです。そのことのゆえでしょうか、ユダはイエスさまを裏切ることになります。
なぜユダがイエスさまを裏切ったのか?その理由は色々と言われておりますね。彼はイエスさまのグループで会計を担当していたようです。でも、その中から少しずつお金をごまかし、私腹を肥やしていたようですね。といってもそんな大した金額にはならないでしょうが…とにかく、そのような心の持ち主ですから、イエスさまを心底は慕っていなかったということです。
ではなぜユダはイエスさまに従っていたのでしょうか?おそらく彼はイエスさまがイスラエルの王様になるに違いないと信じていたのでしょう。ローマ軍を追い払い、イスラエル王国を再建する、それがイエスさまの使命だと考えていたのでしょう。だから、イエスさまが王になったならば、自分が財務長官か何かをやって、もっと多くの富を手にしようと志していたのかも知れません。彼にはそのような、何かしらの野心があったのでしょう。
ところが、ユダがどんなに待っても、相変らずイエスさまは貧しい生活をする。選挙活動もしなければ、軍隊も組織しない。毎日することは宮で福音を伝えることと教えること、そして夜は祈ることだけ。3年半一緒にいて、本当にそれしかしていない。
奇跡を目の当たりにしている弟子ですから、イエスさまに力があることは十分わかっている。でもその力をローマ軍打倒のために用いようとしない、そんなイエスさまにユダは焦り、イラつきを感じていたのではないでしょうか。
そしてついにユダの心にサタンが入り込みました。ユダはそのことを知りません。そしてユダはユダなりに、最善のことを行おうと考えていたのです。
「そうだ。祭司長や律法学者に捕らわれれば、イエスさまの本来の力を発揮するかも知れない。そしてその力が発揮された時に、民は一丸となってローマ軍を追い出せるだろう!!」
彼は、自分の信じる所に従って、良しと思われることとして、イエスさまを売り渡したのです。しかし、その心はサタンに操られていました。
ところで、7節からはイエスさまと弟子たちの話になりますが、ここに名もない1人の男性が登場します。本当に名前も紹介されません。彼のしたことが賞賛されるわけでもありません。でも、イエスさまのために素晴らしい働きをしている男性が紹介されるのです。
この男性は、イエスさまが弟子たちと一緒に食事が出来るように場所を用意し、席を整えていたのです。なぜそのようなことができるのでしょうか?イエスさまが前もって町に出て、この男性と打合せをしていたのでしょうか?普通に考えれば打合せをしているでしょうね。でも、イエスさまの業ですから、そうではないと私は思います。
この男性は、朝毎に祈りの時間を持っている人だったのでしょう。そして祈りの中で今日するべきこととして、席を整えるよう導かれたのではないでしょうか。
この男性は理由もわからなかったでしょう。なんのために席を整えるのか。自分の理由はまるっきりないですよ。彼がそこで食事をする訳ではないのですから。
でも彼は全てを神さまに委ねていました。明け渡していたのでしょう。「今日あなたが私にお語り下さることについて、私は『はい』と答えます」と。
その結果彼は食事の席を整えたのでしょう。そして弟子たちが来て、食事の部屋について訊ねた時、全てを理解したのでしょう。
ユダは、自分の義のために、サタンに利用されました。この男性は名前も出てこないけど、神さまに明け渡しているため、神さまのご用のために用いられました。
自分自身を導いている力はどこから出ているのでしょうか?自分の内側を見る時に、その出所を発見できます。
ポイント2 祭典を自分のものとしましょう (8)
イエスさまは過越しの祭を祝うための場所を求めました。
イエスさまの今までの行動を見てみますと、何か形式ばった儀式を打ち壊しているように見えていたのですが、ここでは、先祖代々伝わるお祭を自分から率先して行おうとする姿を見ることが出来ます。一体どういうことなのでしょうか?
そもそも、私たちは礼拝をどのように捕らえて守っているのでしょうか?もし、この礼拝を「習慣」だから、とか「そうするものと決められている」からとか、「伝統」だからというのであれば、それは非常にもったいない礼拝の捧げ方になると思います。
礼拝は、私たちに対する神さまの愛が現されたそのことを記念し、もう一度再現する場であります。ですから、ここにおいて私たちはもう一度神さまの前に出て、罪赦されたことの確認、主が私たちのために死んで下さったことの確認をし、主をほめたたえつつ、心からの喜びと平安に満たされる場であります。
「礼拝は自分のためのもの」という意識の中で、神さまと交わるところであるのです。
主はこの日の夜、捕らえられてしまいます。そして次の日には十字架にかかります。しかし、その十字架によって、私たちは罪を赦され、罰を下すための主の使いが私たちの前を通り過ぎるということを経験するのです。
イエスさまにとっては、この過ぎ越しの祭が、自分が子羊としてその血を柱に塗られるという、本当に自分のものとしての祭となっているのです。
主は十字架につきました。十字架は今でこそ綺麗に飾られていますが、本当は見るのも恐ろしいという極刑の道具ですよ。主がこの十字架にかかり、私たちの罪を背負って死んで下さった。このことによって私たちは赦されて、永遠の命をいただいたのです。
この事実があるから私たちは今礼拝を捧げるのです。ですから、この礼拝は伝統のため、形式のため、自分の習慣のために行うものではないのです。自分自身と神さまとの関係のために捧げるものなのです。皆さんは、本当に主が自分のために十字架について下さった、という自覚をもって、心からの感謝と喜びを捧げる礼拝を捧げておりますか?
礼拝を自分のものといたしましょう。
ポイント3 過ぎ越しの祭を過ごしましょう (7)
過越しの祭とはどのような祭だったでしょうか。その起源は出エジプト記に記されております。
イスラエルの民を去らすまいとしたエジプトには様々な災害がもたらされました。その中の最後の災いが、全ての家の長男が死ぬ、という災いです。この災いを逃れるために主はイスラエルの民にこのようにしなさい、という命令を出しました。
傷のない一才の小羊を用意しなさい。その小羊の血を家の入口の二本の柱と鴨居に塗りなさい。
ということでした。主の使いがその血を見てその家の前を過ぎ越し、血の塗られていない家の長男をことごとく絶つという災いであったのです。
この奇跡(災い)のゆえに、エジプトの王はイスラエルの民を去らせる決意を硬くしました。
神さまは傷のない一匹の小羊の血によって、民を縛っている奴隷のくびきから解放されたのです。
イエスさまが私たちの代わりに十字架につき、私たちの罪を赦して下さったとはどういう意味なのか、それがここで現されているのです。
イエスさまは間違いなく私たちと同じ人間としてこの地上を歩みました。神であったお方が人間として過ごされたのです。人間として歩まれたのですから、私たち同じように罪を犯す機会もたくさんあったのです。ところが、聖書を見ると、主は「15この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」。
主は罪を犯すことがない、ということで傷がないのです。そして、この傷のない神の小羊の血を柱と鴨居塗ることによって、私たちは罪がないものとして、神さまから認められるようになるのです。
だから、私たちの柱とは何ですか?鴨居とはなんですか?
それこそ十字架です。私たちが立つところは、十字架でしかないのです。ここで赦され、愛され、生かされていることが明らかにされているのです。
過越し際の準備のために用いられた男性。私たちも礼拝を十字架のもとに立つその時として、やがてくる終わりに日に備えながら、主の十字架を、血潮をあがめてまいりましょう。