喬木教会説教
2002年7月28日

主の晩餐

ルカ22:14〜23

14時刻になったので、イエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも一緒だった。15イエスは言われた。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。16言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない。」17そして、イエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから言われた。「これを取り、互いに回して飲みなさい。18言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」19それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」20食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。21しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。22人の子は、定められたとおり去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。」23そこで使徒たちは、自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めた。

 

序論 聖餐式が月に一度もたれておりますが、どのような思いでこれを受けますか?

 

概論 イエスさまは捕らえられ、弟子たちと別れ離れになる前に、最後の食事をされました。そしてその食事をずっと待ち焦がれていたようです。

 

ポイント1 主が望まれた聖餐(15)

主はなぜ弟子たちと共に過越しの食事をすることを願われたのでしょうか?

現在、過越しの食事を教会では「聖餐式」と呼びます。この聖餐式の意味はどのようなものなのでしょうか?

式文でも語られていることは、主の体を象徴するパンとぶどう液をいただくことにより、私たちが一つになるということです。主がこの食事の席で弟子たちと共に食事をする、そのことにより一つになる、ということなのかも知れません。

それは、この過越しの祭において、イエスさまご自身が小羊として十字架にかけられ、血を流すことによって人々の罪を贖います。その贖いの業を通して、そのことを信じる私たちは「神の子となる特権をいただいた」のです。

主は最後の食事をしたいと切に願われていた。それは、イエスさまご自身にしてみれば十字架にかけられる苦しい時間であろうとも、そのことを通して主が愛される私たちが救われるそのことを喜びとしていたからではないでしょうか。

イエスさまは、自分の命を捨ててまで私たちの救いを願っておられたのです。

 

ポイント2 記念として行うこと(19)

イエスさまは、私たちを救うために十字架につく。そのことを記念してこのパンとブドウ酒を受けるように、といわれました。記念とするのです。

誰でもそういうことはあると思うのですが、人から見たら本当にガラクタ。でも自分にとっては宝物、という物がないでしょうか。それはその物に価値があるかどうかはあまり問題ではないのです。その物に人であったり、時代、環境の思い出が染み付いていて、その「記念」が重要になっているのです。

過越しの食事を今は「聖餐式」として私たちは受けておりますが、この「聖餐式」がただの形式になってしまったら、そこにイエスさまとの関わり、という記念がなくなってしまいます。

聖餐式の度に、イエスさまが私たちのために命を捨てて下さったことを覚えましょう。

 

ポイント3 裏切ることの不幸(22)

イエスさまと一緒に食事をしている者の中に、イエスさまを裏切ろうとしている者がいました。それがイスカリオテのユダでした。彼はその計画がイエスさまのためであり、そして自分たちのためであると信じて疑っていなかったでしょう。それだけに「裏切る者」と言われた時には誰のことを言っているのか理解出来なかったことと思います。ヨハネ福音書を見ると「それは私ですか?」と聞いているほどですから。

裏切る者が不幸。それはなぜでしょう?

それは、私たちの救いであるイエスさまを裏切るのですから、自分の救いの道を絶ってしまったことになるのです。

自分の責任は自分で負う。その通りでしょう。大人であればあるほどそれを「当然」とするのです。しかし問題は私たちの罪の問題です。一体誰が自分の罪の責任を取りきれるのでしょうか?今まで自分が犯して来た罪、実際に行ったこと、心の中で思ったこと、人を傷付けたこと、それらの罪を全て負いきれるでしょうか?決して負いきることは出来ないのです。

だから、神の独り子が変わりにその責任を負って十字架についてくれたのです。子どもの負債を変わりに背負う親のように。

その救いの道をユダは自ら絶ってしまったことになるのです。そうなると、もう救いがありません。彼の結末は首を吊って死ぬことです。しかし死んで終わりではありません。その後の永遠の世界があり、その世界で永遠に苦しまなければならないのですから本当に不幸です。

 

教会においてイエスさまと一緒に食事をしながら、外においてはイエスさまを否定する、隠すというのであれば、イエスさまを裏切っていることと同じではないでしょうか。

イエスさまはその命をかけてまで私たちの救いを成し遂げてくださいました。私たちが救われるために喜んでその命を捧げて下さったのです。そのことを本当に喜びとしたいものです。

大きな喜びを持ったとしても、人間は忘れやすいものです。だからイエスさまは記念に行いなさいと言われました、その聖餐式を持つごとに神さまからの恵みを思い起こしましょう。

そして決してイエスさまを裏切らない生活を送りましょう。