喬木教会説教
2002年8月18日
立ち直ったら
ルカ22:31〜34
31「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。32しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」33するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。34イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」
ポイント1 理想の自分 (33、34)
私たちの主、イエス・キリストとはどんなお方でしょうか?聖書を見ると、神の子であることがわかります。ですから根本的に人間とは違うお方ということであります。しかし同時に、神であられたイエスさまが人間になった、とも記されております。ですから、人間と同じ誘惑に会い、苦しみの中を通ってこられたと。
そのイエスさまが毎日必ず、多くの時間を割いて行っていたことが何か、というと祈りでありました。祈りによって神さまとつながり、いつも力に満たされていたのでしょう。そしてまた、祈りによって神さまの御旨を知っていったのでしょう。
そのイエスさまが離し始めます。おそらく天界においてなのでしょう。ヨブの時と同じなのかなぁ、と想像してしまいますが、サタンが弟子たちをふるいにかけることを願い、そのことを神さまが許可したというのです。
このような話しをされた弟子たちは、何のことだかさっぱりわからなかったのではないでしょうか?でも、とにかくサタンが働こうとしていることを感じ取ったことでしょう。そして続くイエスさまの言葉。「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った」。
ペトロにしてみたら、「そんなことは絶対にありえないですよ」という内容です。「自分の信仰がなくならないように、ですって?そんなこと祈る必要もないですよ。だって、私の信仰がなくなるなんて、そんなことあり得ないですから」。ペトロはそう思ったでしょう。
ですから彼は答えました。「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」。この覚悟あるんですよ。だから大丈夫ですよ。と言っているのです。
このペトロがどうなったのか、それは後の箇所ですぐにわかることでありますが、彼はイエスさまを拒んでしまいました。彼は理想の自分と現実の自分とのギャップに酷くショックを受け、立ち直れないほどに落ち込んでしまうのです。
私たちは頭の中で「理想の自分」を作りだし、その自分に満足していることはないでしょうか?「自分は大丈夫」と言う人ほど危ない、ということはよく言われることであります。
また、伝道や奉仕に対しても、自分で理想の時や環境を作り出して、根拠のない安心感を持とうとしたりすることはないでしょうか?
主の前に、私たちは一度謙虚に、ありのままの自分を受け入れる必要があるのです。
主はペトロに現実の姿を示しました。しかしそれは裁くためではありませんでした。大きな恵みの座への招きとしての語りかけでありました。理想の自分を捨て、主の前にありのままの、弱さを持った自分を認め、自分の姿をさらけだせるものでありましょう。
ポイント2 主の願い (32)
弱さを持ち、何も出来ない私たちですが、その私たちにイエスさまが望んでおられることはなんでしょう?
私たちが通常、愛する者に対して抱く思いとはどのようなものでしょうか?誘拐事件、事故、病気など、何か不幸が起こった時、関係者は、「ただ生きていてくれさえすれば良い…」といわないでしょうか。
愛する者が命を失ってしまうこと、このことが一番苦しいことであります。だから、何があっても、ただ生きていて欲しい、そう思うのです。
私たちを深く愛する神さまも同じであります。私たちが「生きる者」であって欲しいのです。ただ心臓がバグバグ動いているという生よりも、心の底から力が湧いてきて、生を実感する、喜び溢れる生命、その命に満たされ、そして永遠に生きて欲しいと願っておられるのです。
その主が願われたことは、「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った」でした。命、それは「信仰」によって左右されるものである、ということなのです。「信仰」さえあれば、神さまが願われるような生を私たちは得ることが出来る、ということなのです。
神さまは私たちに何を求めているのでしょうか。私たちが偉大な信仰を持つことでしょうか?そうではありません。偉大な神さまを信じる信仰を持つことであります。
神さまは私たちの内に信仰を持つことを望んでおられるのです。わからなくてもよい。でも、その信仰を持つために一歩踏み出せ、と願っておられるのです。
世の終わりが近付く時、人々の愛は冷えます。戦争の噂が飛び交い、災害があちこちで起きます。ヨーロッパにおける大洪水も災害ですよね。この時代は信仰が軽んじられ、信仰を持つことが愚かとされる時代に突入しているのです。ですから主も言われました。「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見出すだろうか」(ルカ18:8)と。
神さまは私たちが信仰をもてるように、その信仰によって私たちが救われるために、独り子を地上に送り、十字架にまで付けて下さったのです。この事実のゆえに、私たちは信仰によって救われます。
信仰は行為ではない。信じること。そのことによって救いを明確なものとしなければなりません。主は私たちが大胆にこの信仰を持つことを願われているのです。
信仰を持ちましょう。偉大な神さまを信じ、心の中にイエスさまをお迎えしましょう。
ポイント3 将来の自分 (32)
弱さを持つ私たちですが、神さまが望んでおられるように信仰をもつならば、私たちは力を受けるのです。主はペトロに言いました。「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と。このペトロは「鶏が鳴くまでに、三度わたし(イエスさま)を知らないと言う」ような人物です。
でも、このペトロが主によって祈られ、信仰によって立ち直った時に兄弟を力づけてあげられる者へと変えられるというのです。実際に彼はイエスさまを拒んでしまい、自分自身に絶望します。後、立ち直り本当に素晴らしい働きをする人物へと変えられるのです。
来週は特別伝道集会です。皆さん、この日のために誰か1人でも真剣にお誘いをしているでしょうか。多くは望みません。でも、最低1人、「この人を救いに導きたい」という人を誘っておりますか?もし誘えない、誘っていない、というのであれば、私たちは自分の内を確認する必要があります。「自分には神さまに対する愛があるのか?」と。
教会に誘えない。それは神さまを証し出来ない、ということであります。ペトロは「死ぬ覚悟であなたに従って行きます」と言っておきながら、実際は「3度知らない」と言い、落ち込んでしまうのです。主を信じ、主に従っている者が証しできないとするならば、私たちはペトロと同じように落ち込むのが当然となるのです。
しかし、そこで落ち込むからこそ、主の恵みの力が私たちの上に注がれ、証しをする力を注いで下さるのです。一度主を否定したペトロが、聖霊によって強められ、説教をするようになり、本当に多くの人を救いに導くのです。
主の前に落ち込まないのは、やはり理想の自分が強すぎて、自分の弱さを認めることが出来ないからなのでしょう。主の前に自分の現実の姿を顕にされるならば、私たちが自分に落ち込むのです。そして自分の力に絶望し、主に信頼し、主により頼むしかなくなるのです。そのような状態で立つことが、「立ち直った」状態なのです。
この時、私たちは兄弟たちを力づける者へと変えられるのです。
主は私たちを立たせるために十字架につきました。私たちが立ち直るために、血潮を流し、命を捨てられたのです。この尊い犠牲によって私たちは立ち直れるのです。
私たちの信仰を奮い立たせ、新しい魂の救いのために、兄弟たちを力づけるために、信仰者としての歩みを続けてまいりましょう。