喬木教会礼拝説教
2002年9月1日(日)
終わりに備える
ルカ福音書 22章35〜38節
35それから、イエスは使徒たちに言われた。「財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか。」彼らが、「いいえ、何もありませんでした」と言うと、36イエスは言われた。「しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい。37言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する。わたしにかかわることは実現するからである。」38そこで彼らが、「主よ、剣なら、このとおりここに二振りあります」と言うと、イエスは、「それでよい」と言われた。
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信頼に得る神さまであることを覚えよう
私が始めて聖書を読んだ時、とても印象深かった御言葉は「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存知である。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ6:32、33)でした。
日本においては、ほとんど全ての人が必要最低限のものを手にしていないでしょうか?
神さまを知らない者にでさえも、必要最低限、いや必要以上に全てを満たして下さる神さまです。ましてや神の子となった者に全てを下さらないことがあるでしょうか。
また、物質だけが満たされていれば良いかというとそうではありません。
先日、友人よりメールで祈って欲しいという要請がありました。ある牧師の息子さん(小学2年生)が脳腫瘍ということで手術を受けるとのことでした。
その子自身にとってもとても大変なことですが、その子の親の気持ちを考えると、本当に胸が痛くなる思いでした。その翌日、その友人から再びメールをいただきました。手術が無事に終わったとのことでした。そしてその息子さんのお父さんからのメールを転送してくれました。そのお父さんは手術が無事に終わったことなどの感謝を記しながら、最後には大変な出来事の中だったけれども、心は平安でした、という言葉がありました。
必要な物以外にも、私たちを決して見放さず、守って下さる神さまであることを思わされます。
独り子をお与えになるほどに私たちを愛して下さるお方ですから、このお方に信頼して従う時に、私たちは本当の幸いを得るのではないでしょうか。
A
自分の足で立てるようになろう
35節.弟子たちは、イエスさまから遣わされた時、何も不足しなかったと言っております。
不足がなかったから、これからも大丈夫、と思うのですが、イエスさまは意外な事を言われます。「しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい」。
全てを備え、用意し、自分だけで身を守れるようにしなさい、と言っているようであります。しかも、剣を用意しなさいと言うのです。平和を説く神の子らしからぬ言葉に聞こえます。イエスさまは私たちに戦争に備えるように言われているのでしょうか。
聖書全体から見るならば、イエスさまは私たちに剣を用意させ、相手に切りかかるようなことは決して望んでいない、ということがわかります。弟子の一人が剣で切りかかった時もそれを止め、傷ついた者を癒しております。
では剣とは何でしょうか?聖書の他の箇所に剣が登場する所があります。それはエフェソ書です。6章13〜17節です。
「13だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。14立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、15平和の福音を告げる準備を履物としなさい。16なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。17また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。」
剣とは霊の剣、神の言葉だと言われているのです。
イエスさまが私たちに求めているのは、御言葉の剣をしっかりと持つことです。
「霊的な戦いは肉的な戦いを先行」しているのです。霊の部分で勝利を収めなければ、肉の世界において勝利を見ることは出来ません。終わりが近いからこそ、私たちは霊の世界で勝利を収め続けなければならないのです。その時に剣がなかったら、本当に悲しい戦になりますね。
人や書物を通さなければ御言葉をいただけない。自分は伝道が出来ない。という状態では困ってしまうわけですね。困るだけなら良いのですが、下手をすると負けてしまう。立ち上がれなくなってしまうのです。
自分だけが立たされた時であってもこの御言葉を使いこなし、この剣によって勝利を得られるクリスチャンでありましょう。
B
御言葉の成就を知ろう
私たちが信頼を築こうとしたなら、約束を守ることが最重要されますよね。なぜ私たちが神さまを信頼出来るかと言うと、神さまは約束を全て守っておられるから、であります。
聖書に記されている預言は、一つとして外れてしまったことがないのです。
その預言として、今日イエスさまが語られたことがありました。「言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』(イザヤ53:12)と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する。わたしにかかわることは実現するからである」という言葉です。
神の子が「犯罪人の一人に数えられた」のです。その預言の御言葉を正確に見るとこう書かれています。
「それゆえ、私は多くの人を彼の取り分とし、彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼は自らをなげうち、死んで、罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのは、この人であった。」(イザヤ53:12)
この御言葉はイエスさまが生まれる約300年前に記されたものです。その御言葉が必ず実現するとイエスさまは言われ、そしてその通り、イエスさまは犯罪人と一緒に十字架にかけられ殺されるのです。
しかしそれと同時に、その十字架によってイエスさまは「戦利品としておびただしい人を受け」たのです。この十字架こそが私たち個人が担わなければならなかった罪、死という鎖であったからです。
今イエスさまを信じることによって、私たちはイエスさまが執り成しをしていて下さり、このイエスさまが共にいるから「もう大丈夫だ」と心から安心を持つことが出来るというのです。
聖書に記されているように、もう地球規模で終わりが近いことを感じさせられます。この時、私たちは成長したクリスチャンを目指し続ける必要を覚えさせられます。そして全てを備え、最善に導いて下さる神さまを信頼し、また自ら御言葉という剣を手にして、神さまの約束を信じ続け、勝利の歩みを続けて参りましょう。