喬木教会礼拝説教
2002年10月6日(日)
神の子の証言
<ルカ福音書 22章63〜71節>
63さて、見張りをしていた者たちは、イエスを侮辱したり殴ったりした。64そして目隠しをして、「お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と尋ねた。65そのほか、さまざまなことを言ってイエスをののしった。
66夜が明けると、民の長老会、祭司長たちや律法学者たちが集まった。そして、イエスを最高法院に連れ出して、67「お前がメシアなら、そうだと言うがよい」と言った。イエスは言われた。「わたしが言っても、あなたたちは決して信じないだろう。68わたしが尋ねても、決して答えないだろう。69しかし、今から後、人の子は全能の神の右に座る。」70そこで皆の者が、「では、お前は神の子か」と言うと、イエスは言われた。「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている。」71人々は、「これでもまだ証言が必要だろうか。我々は本人の口から聞いたのだ」と言った。
ポイント1 イエスさまを知る前の状態
弟子の一人であるユダから裏切られ、イエスさまを憎む祭司長、律法学者、長老たちの所に連れて行かれたイエスさま。連れて行かれた先で散々侮辱されながら取調べを受けていました。そして夜が明けると正式な裁判です。
この裁判は通常ファリサイ派、サドカイ派やラビ、祭司長たちの代表者が送られて裁判を行う形になっておりました。70人の議員で裁判をするような形ですした。その中で被告を訴えたり、弁護したりするそうです。そして通常、一日で死刑の判決が言い渡されるようなことはなく、出来るだけ被告が有利になるように配慮されているものであったといわれております。
ところがイエスさまはどうであったのか。普通は一日かけて決定されるはずの死刑判決が当日のうちに、罵られながら決められてしまうのです。とても不条理な、腹正しい判決です。
もうそのような判決が出ると決められている裁判でした。誰もがイエスさまを馬鹿にし、犯罪人と見なす空気がそこら中に漂っているようなそんな場面でしょう。
63節を見ると、「見張りをしていた者たちは、イエスを侮辱したり殴ったりした」とあります。
捕らえられてから明くる朝まで、イエスさまは神殿を警備するような人たちに引き渡され、見張られておりました。その人々から暴力を受け、罵られていたのです。今の世の中でもそうですが、犯罪人は差別されるのですね。
この「見張り」たちは、別にイエスさまを裁く権威も持っていませんし、何か偉い権限も持っている人物たちではありません。その彼らが大きな顔をして、自分は正しいことをやっていると言わんばかりにイエスさまを罵倒し、殴っているのです。本来赦されるべきことではないことが行われているのです。
私はここを読んだ時、「見張り」に対して腹を立てました。「お前は何様のつもりだ!?お前たちが罵倒し、暴行を加えているお方が誰だかわかっているのか?」と。そんなことを思っておりましたら、同じ声が自分自身に対して聞こえて来るようでした。
「お前は私を馬鹿にしたことも、殴ったこともなかったか?その見張り役の顔をよく見てみろ。お前ではないか」と。
イエスさまは私たちの罪のために、十字架につけられました。その有様を聖書は預言しておりました。その様は屠り場に連れて行かれる羊のように引かれて行ったと。そして罵りを受けながら死ぬと。
イエスさまに対する暴力。あざけりの言葉。それは、イエスさまを神と認めなかった自分の言葉。イエスさまが神さまであったことを知らなかった私たちの過去の生活。イエスさまを主とし、従わなかった私たちの不信仰。このことなのであります。
私たちは誰も、最初からクリスチャンで、最初から神さまの御旨にかなうような生き方が出来ていたものではありません。イエスさまはそれらの私たちの罪を全て背負い、これから十字架につこうとしてくださっているのです。
私たちは、自分の言動によって主を苦しめ、辱めていたことを決して忘れるべきではないでしょう。
そしてその苦しみを全て受け止めて下さり、十字架へと歩んで下さったのが主であることを覚えたいと思います。
ポイント2 主の見つめていたもの
人から馬鹿にされ、その場に自分の居場所が見当たらなかったら、私たちの気分はどうなるでしょう。自分の主張に絶対の自信を持っていれば、怒りを持って人々に立ち向かうことが出来たかも知れません。それでも、その主張も絶対聞き入れられない、さらには罵られ、殺されようとしている、となれば、自分の思っていることも言えず、萎縮してしまうのが私たち人間ではないでしょうか。
そうなれば、何とかしてその場を「切り抜けよう」とすることに一生懸命になるのが普通です。決して揚げ足を取られるようなことを言わず、議論を曖昧にして切り抜けることです。
ところが、イエスさまは無意味な議論に対しては口を開かなかったようですが、一つのことに関してはその主張を曲げず、恐れもせずにしっかりと告白しました。その質問が何であったのかというと、「お前は神の子か」であります。
それに対してイエスさまは「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている」と答えます。よくわからない文に見えます。英語では「You are right in saying I am」と言う言葉です。要するに、あなたが私に対して言っていることは正しいことですよ、ということです。ですから、「私は神の子」です、と言っているのと同じなのです。
そう答えれば、本来なら敬われ、あがめられるべきなのですが、この議場では、その言葉のゆえに死刑にされるというのは目に見えて明らかでした。負けるとわかっていることを、殺されるとわかっていることをあえて言う。その勇気は見上げたものです。
この勇気は一体どこから出てくるのでしょうか?
イエスさまは現状はどうしょうもない、ということもわかっていたのです。ですからこう言います。「わたしが言っても、あなたたちは決して信じないだろう。68わたしが尋ねても、決して答えないだろう。しかし、今から後、人の子は全能の神の右に座る」。
イエスさまが持っていた勇気の根源は最後の一言、ここにあるのです。「今から後、神の右に座る」。将来に与えられている約束です。これがあるから、今はどんなに不利な状況に立たされていても、イエスさまは立派に戦い続けることが出来たのです。
私たちにおける将来の約束は、永遠の命。イエスさまの再臨ですね。イエスさまを信じる時、私たちの名は天の命の書に記されているのです。そしてこの地上の生涯を終える時、私たちは神の国に迎えられる。この約束があるから、罪に勝ち、勝利の道を歩き続けることが出来るのです。
主が見つめていたのと同じものを、私たちは見続け、歩き続けましょう。
ポイント3 主に出会った幸い
最後に、イエスさまはご自身を「神の子」として認めました。それは、イエスさまが来られることを預言していた人々、そしてその言葉を聞き、メシアが現れるのを待ち続けていた人々がずっと待ち望んでいた言葉でありました。やがてそのような証言をする方が現れる、そう待ち望みつつこの世を去って行ったのです。
私たちは今、その言葉を耳にすることが出来たのです。これは何と言う幸いでしょうか。
しかし一つ注意したいのは、この言葉は私たちが聞く以前に、この裁判の席に座っている議員たちが最初に聞いているのです。彼らは本当に素晴らしい時、素晴らしい場にいた人々です。メシアと対面し、そのメシアが自分の招待を明らかにされたのですから。
ところが彼らはその言葉のゆえに、イエスさまは神を冒涜したとして死刑だ!!と騒ぎ始めるのです。
人間というものは、その罪の性質の故、思い込み、固定概念によって真実を偽りへと返る力を持っているのです。祭司長たち議員は、この言葉のゆえにイエスさまの死刑を確定したのです。
人類が長いこと待ち望んだメシア。このメシアが今目の前にいる。そのお方に会うのを楽しみに聖書を研究していた人々です。この人々がイエスさまを拒否したため、現在でもユダヤ教の人々はメシアを待ち望んでいるのです。この素晴らしい出会いを逃したユダヤ人は、2千年経った今でもメシアに会うことが出来ずにいるのです。
今私たちは、このイエスさまの証言を真実であると確信し、共に歩める幸いを頂いているのです。この事実を最高の幸せ、恵みを本当に喜び、感謝して信仰の力にして参りましょう。