喬木教会礼拝説教
2002年10月13日(日)

ユダヤ人の王

<ルカ福音書 23章1〜12節>

1そこで、全会衆が立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った。2そして、イエスをこう訴え始めた。「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました。」3そこで、ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」とお答えになった。4ピラトは祭司長たちと群衆に、「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」と言った。5しかし彼らは、「この男は、ガリラヤから始めてこの都に至るまで、ユダヤ全土で教えながら、民衆を扇動しているのです」と言い張った。

6これを聞いたピラトは、この人はガリラヤ人かと尋ね、7ヘロデの支配下にあることを知ると、イエスをヘロデのもとに送った。ヘロデも当時、エルサレムに滞在していたのである。8彼はイエスを見ると、非常に喜んだ。というのは、イエスのうわさを聞いて、ずっと以前から会いたいと思っていたし、イエスが何かしるしを行うのを見たいと望んでいたからである。9それで、いろいろと尋問したが、イエスは何もお答えにならなかった。10祭司長たちと律法学者たちはそこにいて、イエスを激しく訴えた。11ヘロデも自分の兵士たちと一緒にイエスをあざけり、侮辱したあげく、派手な衣を着せてピラトに送り返した。12この日、ヘロデとピラトは仲がよくなった。それまでは互いに敵対していたのである。

 

ユダヤ人の王

@王の存在を喜ぶか

ユダヤ人たちはイエスさまをローマの権限を持つピラトのもとに連れて行きました。その理由は、彼らには人を死刑にする権利は与えられていなかったからであります。そして、何とかしてイエスさまを死刑にしようと考えていたからです。

では、イエスさまを殺そうとする理由は何だったでしょうか?表向き、サンヘドリンというユダヤ人の裁判では、神さまを冒涜した、というのがその理由でした。しかし、ピラトの前でユダヤ人がわめきたてている罪状は、民族を惑わしている、皇帝に逆らおうとしている、自分を王としている等、政治的な犯罪に結び付けています。というのも、ローマはユダヤ人の信仰的な問題で裁判はしないからです。

彼らはなぜそこまでしてイエスさまを殺そう、排除しようとしているのか?おそらくそれは、自分の今の安泰な生活が崩されることを嫌ったからではないでしょうか。宗教指導者としてのプライドを守り、親ローマ帝国として政治的にもある程度影響力を持った立場です。置かれた状況の中ではまぁまぁ良い立場に彼らはあったのです。その生活を揺るがす存在は、いつでも排除しなければならなかったのです。

ユダヤ人はイエスさまを訴えておりますが、その理由はイエスさまがユダヤ人の王、メシアであるゆえなのであります。

彼らは自分自身が王であるので、メシアを迎え入れることが出来なかったのです。

イエスさまは私たちに対して、王として迎えて欲しいと願われております。その王をどのようにお迎えしますか?自分の生活を揺るがす存在として危惧し、排除しますか?それとも、喜んで王の前に降伏し、王の支配を望みますか?

 

A王の教えを喜ぶ

ユダヤ人の王は、どんな罪でピラトの前に訴えられているのでしょうか?「わが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っている」ことの故でした。事実に即しているようで、実は事実ではない罪で訴えられているのです。

ユダヤ人の王がしてきたことは何だったのか。福音書を読んでみると、囚われ人を解放し、病人を癒し、全ての人に福音を伝えてきたことでありました。

その教えで語られた言葉をほんの一つ二つをつまみ上げ、揚げ足を取り、それを訴える口実にしているのがユダヤ人でありました。ユダヤ人の王は、その民からとことん嫌われていることを見ることが出来ます。それは、人間の罪深い性質を現しているように思えます。

正しい人が来て、正しいことを言う。言われた方どうでしょうか?当たり前のことを言われているのですが、素直に聞き従うのが難しかったりすることがないでしょうか。正しいことでわかっているのですが、そのことを認められず、返って反発してしまいたくなる。さらに、反発に加えて自分の正しさを一生懸命主張したりしてしまうのです。

自分が今まで教えてきたこと、それと違う方法、形で民に教え、しかもそれが真実であり、納得してしまうものであれば、自尊心の強い人々は腹立ってしまい、その正しい教えのゆえに教えている人を裁くのです。

ピラトはそんなユダヤ人の思いを見抜いていたことでしょう。ローマの公正な法律によって、ユダヤ人の言うとおりに裁くのは、彼の義が許さなかったことでしょう。そこで、ユダヤ人の口から出てきた「ガリラヤ」という語を聞くことによって、この面倒くさい裁きから逃れようとしたのです。

ガリラヤとは土地の名前ですが、反逆を企てる者がよく出た地域らしいですね。ですから、ユダヤ人は、ガリラヤから出て者が人々に教えている、ということでイエスさまが犯罪人であるという印象を強くさせようとしたようです。

神さまからの言葉を素直に聞けない人の罪の姿を見るわけです。

御言葉を聞く姿勢。土が水を吸収するように。根っこが栄養を吸収するように聞けるものでありましょう。

 

B王に接する態度を決める

人間の大きな罪の姿をユダヤ人が現していたわけですが、そのとどめをガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスがさしたようです。

ユダヤ人はありとあらゆる言い訳によって神の子を拒否し、その言葉に耳をふさぎ、罪人として引き渡しました。そしてそれを引き受けたのがピラトであり、このヘロデでありました。

ヘロデはどのようにイエスさまを扱ったのでしょうか?彼は喜んでイエスさまを迎えております。なぜなら、「彼はイエスのうわさを聞いて、ずっと以前から会いたいと思っていたし、イエスが何かしるしを行うのを見たいと望んでいたからである」。

要するに、見世物の一つとしてイエスさまに会いたかった。または有名人に会いたくて、イエスさまを望んだのであります。

このような態度でイエスさまに臨むとき、私たちはイエスさまから何かいただけるとは思わない方がよいでありましょう。イエスさまはヘロデには何もお語りになりませんでした。尋問されても、奇跡を起こせと言われても、何も答えないのです。彼らに対しては何も語ることがなかったのです。

私たちのイエスさまに対する態度はどのようにあるべきなのでしょうか?興味本位の一つとしてイエスさまと対面するのでしょうか?そうではありませんよね。

イエスさまが自分の主である、そのことを認めてイエスさまに出会うのです。ですから、イエス様から語られた言葉は王の言葉、主人の言葉として聞くのです。そのような言葉でありますから、私たちはいい加減に聞くことは許されません。そこで聞いた言葉によって、自分が変わり、その言葉によって自分が建てられるという意識を持たなければならないのです。

王を王とする時に私たちは、生活が変わり、そして信仰が変わるのです。

 

王である主。このお方に出会う時、私たちは心の垣根が取り払われるのです。例え冗談半分で接していたとしても、イエスさまを通してピラトとヘロデが仲良くなったように、このお方によって私たちは神と和解することが出来るのです。

このお方の存在を私たちは喜んでいるでしょうか?このお方の教えをしっかりと聞いているでしょうか?このお方を王として私たちは接しているのでしょうか?

ユダヤ人の王、それがイエスさまが訴えられた罪名でした。でも、主がそのようにして十字架につけられることが、私たちにとっての救いとなりました。

この世で疎んじられ、侮られ、嫌われるあり方が私たちの救いなのです。私たちは自分を中心にしようとする思いを捨て、主を中心とした歩みをしていくべきでありましょう。

イエスさまを王としてお迎えいたしましょう。