喬木教会礼拝説教
2002年10月27日(日)

犯罪人の釈放

<ルカ福音書 23章13〜25節>

13ピラトは、祭司長たちと議員たちと民衆とを呼び集めて、14言った。「あなたたちは、この男を民衆を惑わす者としてわたしのところに連れて来た。わたしはあなたたちの前で取り調べたが、訴えているような犯罪はこの男には何も見つからなかった。15ヘロデとても同じであった。それで、我々のもとに送り返してきたのだが、この男は死刑に当たるようなことは何もしていない。16だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」17(†底本に節が欠落 異本訳)祭りの度ごとに、ピラトは、囚人を一人彼らに釈放してやらなければならなかった。18しかし、人々は一斉に、「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」と叫んだ。19このバラバは、都に起こった暴動と殺人のかどで投獄されていたのである。20ピラトはイエスを釈放しようと思って、改めて呼びかけた。21しかし人々は、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けた。22ピラトは三度目に言った。「いったい、どんな悪事を働いたと言うのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」23ところが人々は、イエスを十字架につけるようにあくまでも大声で要求し続けた。その声はますます強くなった。24そこで、ピラトは彼らの要求をいれる決定を下した。25そして、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを要求どおりに釈放し、イエスの方は彼らに引き渡して、好きなようにさせた。

 

私たちに与えられている神さまの約束とは何でしょうか?

色々な約束が与えられていますが、一言で言うならば、「救い」でありましょう。

与えられた素晴らしい恵みの約束をもう一度、確認したいと思います。

 

@救いは御言葉に聞く時に確かなものとされます

ピラトは公にイエスさまを取り調べました。ですから、皆証人になります。そこで、13節。彼は「祭司長たちと議員たちと民衆とを呼び集めて」皆に言います。「この男は無罪だ!!」。

普通、支配者がそう言うのですから、それ以上逆らうことは出来ません。ところが、祭司長や議員たちという普段からイエスさまを憎んでいた人々だけではなく、18節「人々は一斉に、「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」と叫んだ」というのです。今まで散々イエスさまに世話になり、イエスさまを慕っていた人々もいたでしょうに、皆がイエスさまを殺せ!!と叫ぶのです。

これは群集心理ではないでしょうか。うまく焚きつけた人がいて、群集としてイエスさまを殺すように要求したのです。個人個人に聞けば、「いやぁ、別にイエスさまは殺されなければならないほどのことはしていないですよぉ」と言う人が多かったのではないかなぁと思うのです。

同じ様な現象を今でも見ますよね。別に人を殺せ!!という現象ではないですが、ちょっとマスコミが騒ぐと、もう皆が皆ワーッと動きだして、あるものは流行に乗り、あるものは糾弾される。

この世の常識、この世の知恵。この世の考え方は色々ありますが、どれも周りや環境に左右されやすいものです。それらのものを基準としていたら、私たちは安定した生活を送れますか?ましてや、神さまからいただいた「永遠に変わることのない約束」を信じ続けていけるのでしょうか?

まず無理ですよね。ですから、私たちはどうするのでしょうか?

御言葉に聞いて生活するのです。週に一回じゃないですよね。毎日です。そのように生活する中で、日々私たちは神さまからの約束を確認し、また神さまの基準を覚えつつ歩めるのです。これこそが安定した生活ですよ。自分の風によって揺らぐような基準ではないので、どっしりと腰を落ち着けて生活出来ます。感謝ですね。

ユダヤの民衆は、指導者たちに扇動され、救い主を殺せ!!と叫びました。私たちも、この民衆と同じでした。でもこれからは、御言葉を基準に惑わされることのない歩みをしましょう。

 

A妥協のない生活が救いを確かなものとします

民が扇動され、ピラトに迫ります。いくら権力者であっても、暴動さえ起こりかねない状況を前にしたら恐ろしいのでしょう。さらに彼はユダヤ人に弱みを握られていたようです。それらが尾を引いているので、ユダヤ人にはっきりとした権威を示せないのです。

そのピラトがしたことは何だったでしょうか。とりあえず、イエスさまを釈放しようと試みたことです。3回、イエスさまを釈放しようとしています。試みる度に民衆は声を大きくしてピラトに迫ります。そこで彼が次にとった態度。22節です「いったい、どんな悪事を働いたと言うのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう」でした。

罪がないのでしたら、ガンとして意見を変えず、「彼を釈放する!!彼には何の罪もないのだから!!」と言えば良いのです。なのに彼は「わかった。じゃぁこうしよう。彼を鞭で懲らしめよう。そして釈放だ。どうだ?」というのです。彼の態度は完全な妥協です。物売りの値引き合戦ではないのです。本当は妥協する必要のないことです。

日本人は妥協が好きですね。妥協をして、お互いに納得の出来る所を何とかして見つけて、その中に腰を落ち着けようとするのです。ですから、信仰や宗教においては特に、妥協は悪いことではない、という理解があったりします。

しかし、こと救いにあたってはどうなのでしょうか?妥協をしたピラトを見てみるとどうなるのかがよくわかります。彼はイエスさまを何度も助けようとした。しかし民衆によってイエスさまを十字架につけた。彼は「その血の責任は私にはない!!」と言って人々の前で手を洗った。でも妥協したのは彼です。ですから、信仰告白の中で永遠に語り継がれます。「ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け」と。

私たちが妥協するならば、その失敗は永遠に語り継がれてしまったりするのです。永遠の裁きですね。

イエス・キリストが救い主!!私はこのお方に従う!!というのであれば、その道をひたすらに歩みましょうよ。私たちが妥協なく、この信仰を貫き通すのであれば、きっと周りは認めてくれますよ。それもまた救いですから。

主が十字架へと妥協なく歩み通して下さったお陰で得た私たちの救いです。自分も十字架を負い、妥協せず、歩んで行きましょう。

 

B救われた確信を持ち続けよ

当時の習慣として、過ぎ越しの祭りに一人の囚人を釈放することが決められていました。そこでピラトはイエスさまを釈放しようとしました。ところが、民衆はイエスさまではなく、「暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバ」の釈放を願いました。そしてその要求が通り、このバラバが釈放され、そして罪の見出されなかったイエスさまが十字架へと引き渡されました。

バラバの名前はマタイ福音書によると、バラバ・イエスだそうです。彼もイエスという名前だったのですね。それにしても、この解放されたバラバ。一体どんな気分だったでしょうか?

「あれ?俺は十字架につけられるはずだったのに...え?釈放かよ!!マジで!?ラッキー!!」という感じですよね、きっと。でも、自分の代わりに十字架に付けられたのが、何の罪もない、イエスさまだと知ったらどうでしょう?

「確かに俺は釈放されたけど...でも、その代わりに罪のない人を十字架につけてしまったやっぱり俺は罪人だ」なんて思ったりしないでしょうか。

彼は暴動と殺人のかどで投獄されておりましたが、ローマ帝国からの解放運動をしていた人物ではなかったかといわれております。ですから根っからの悪人ではないんですよね。その彼が、自分の代わりに罪を犯していない人が十字架についた、というのですから、良心が痛まないはずがない。

ですから、解放された、釈放された、と言っても「いや、自分が本当は罪人で」と思い続けていたのではないでしょうか。しかし彼は法的に釈放され、無罪とされたのです。

時折、クリスチャンであっても、「私は本当に救われた確信がない」という方がいます。「なぜ救われた確信がないのですか?」と聞くと、大体皆さん同じことを言う。「死んでみなければわからない」、「相変わらず罪を犯してしまう」、「自分のような者が」。

では、バラバはどうでしたか?彼にしてもまさに晴天の霹靂でしょう。牢獄の扉が開かれた。兵隊が自分の方に向かって来る。兵隊が自分の腕を握り立たせる。自分を牢獄から出し歩き始める。「あぁ、ついに自分は十字架だ。死ぬんだな」ところが彼は外に連れ出され、「行け」と言われる。何のことだかわからない。「釈放だ」と言われても訳わからない。そして自分のために無罪の男が十字架についた。

彼も救われた気はしなかったでしょう。でも、もう彼は捕らえられないのです。なぜなら、法律によって釈放されたのですから。彼がいくら「自分には清算しきれていない罪がある!!」と言ったところで、彼は釈放され、罪人ではなくなっているのです。

私たちクリスチャンは?イエスさまを信じること、そのことによって神の子となる特権を頂いたのです。ですから、誰が私たちを罪人にするのですか?誰もいませんよ。いるとしたら自分自身だけでしょう。

聖書を開いてよく読んでみましょう。イエスさまを自分の救い主として信じ、バプテスマを受けるならば、私たちは罪赦され、永遠の命を得ていると書いてありますよね。神さまの律法によって私たちの判決は出ているのです。

ですから、救われた確信、これは疑うことなく持ち続けましょう。

 

これら確信に基づいて信仰生活を送るなら、私たちに与えられた救いの約束は、日々新しい力を持って私たちを満たしてくれます。

自分の弱さ、疑ってしまう思いを日々十字架につけて、確信を持ち続けましょう。