喬木教会礼拝説教
2002年11月3日(日)
彼らをお赦し下さい
<ルカ福音書 23章26〜43節>
26人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。27民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った。28イエスは婦人たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。29人々が、『子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来る。
30そのとき、人々は山に向かっては、
『我々の上に崩れ落ちてくれ』と言い、
丘に向かっては、
『我々を覆ってくれ』と言い始める。
31『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか。」
32ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。33「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。34〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。35民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」36兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、37言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」38イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。
39十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」40すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。41我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」42そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。43するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
特に3つのことに注目したい。クレネ人シモン(26節〜)。十字架(32節〜)。一人の犯罪人(39節〜)。
@ 救いがたい現実に注がれる恵み
今日いきなり登場するのはキレネ出身のシモンという人物です。キレネとは現在でいえば、アフリカのリビヤという国の首都トリポリだそうです。エジプトの西側になります。そこからエルサレム巡礼のためにやってきたのですね。
かなりの長旅ですから、資金面も苦しかったのではないでしょうか。ひたすらにお金をためて、そしてやっとの思いでエルサレムについた。そうして大通りに出てみたら囚人の十字架を担がされてしまう。
十字架刑というのは、ただ殺すだけではないのです。精神面、肉体面に相当な苦痛を与えてその上で殺す、というとても残酷な刑です。まず十字架に付けられる前に鞭で打たれます。弱った体に怨念の染み付いたような重たい十字架を担がせます。そして町を回るそうです。その前には兵士が立ち、兵士は罪状書きを皆に見えるようにして歩くそうです。ですから町中の人が何でその人が十字架につくのかを理解できるわけです。同時に同じことをしようとしていた人にとっては、それが見せしめになるわけです。
散々さらし者にされた挙句、さらに十字架に付けられてさらし者にされます。またその十字架は手足に釘を打ち込んでハリツケにするのですから、その苦痛も相当なものです。
大抵の囚人は半狂乱になりながら、飢えと苦しみの末、死ぬまでに1週間ほどかかったそうです。
その十字架を担がされたのがキレネ人シモンです。おそらく多くの人々はこのシモンが囚人かと思ったのではないでしょうか。彼はイエスさまと一緒に屈辱を味わったのです。
せっせとお金を貯めて、ようやく来ることが出来たエルサレムの巡礼。そうしたら十字架を担がされ、恥辱の中を歩かされる。とてつもなく不幸を味わっていることでしょう。
このシモンについては、聖書では多く語られておりません。使徒言行録の13章にアンティオキアの教会からバルナバとパウロが宣教に出発する時に、そこで紹介される教会のメンバーの中に「キレネ人のルキオ」という人物がいるのですが、これがもしかしたらキレネ人シオンだったのかも知れない、という説もあります。ここでの苦しみが彼を彼が恵みとして受け取り、アンティオキアの教会を形成するのに用いられる人物と変えられた、というのです。
また、マルコ福音書の15:21には、「そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。」とあります。そしてルフォスというと、ローマ信徒への手紙16:13には「主に結ばれている選ばれた者ルフォス、およびその母によろしく。彼女はわたしにとっても母なのです。」とあります。
これは、想像でしかないのですが、もともと長旅をしてまでエルサレムへの巡礼を志すシモンですから、信仰心が篤かったのでしょう。その彼は、恥辱のどん底に叩き落とされながらも、その中でイエスさまと出会い、そしてその人生が変えられたのではないでしょうか。
私たちの人生について考えてみてもそうです。人間というのは傲慢な生き物です。全てが順調に行っていれば、全て自分の努力のお陰。運が良かった。などと言ってその幸せの原因を考えないのですが、何か不幸が起こると、何が悪かったのか。誰が悪かったのかと不幸の原因は考えます。ですから、その中でようやく神さまを求める心が生まれるのです。
そして苦しみ、屈辱の中で神さまに出会えるのです。
主の十字架を負わされた。負う。その現実の中で将来へつながる素晴らしい恵みがあるのです。
A
十字架の上から与えられた赦しの宣告
十字架がどれだけ恐ろしいもので、苦しいものであるのか。もう十分理解していただいていることと思います。この苦しみは本当に理解し難い。ただ考えるだけで背筋が寒くなります。
その十字架に向かう時、イエスさまは後について来る女性たちに語り掛けました。28節からです。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。29人々が、『子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来る。」と。
この時代、女性は子が産めなければそれだけで離婚するのに十分な理由とされました。子どもを産むことの出来ない女性ほど悲しくつらい立場のものはありませんでした。その女性に向かい、子を産まなかった者は幸いだと言われる日が来る、と言われたのです。
そして預言をされました。この預言が成就する時、自分の子がいる人、乳飲み子がいる人ほど苦しむのではないでしょうか。この言葉は、ローマ帝国によって確かに実現しました。しかし、同時にこれは私たちの将来に起こることまでも預言されているような気がいたします。そのような時が来るそうです。そしてその時のために、主は十字架に向かい、また十字架で苦しんでくださったのです。
イエスさまは十字架に付けられました。途中で酸いぶどう酒を突きつけられています。このぶどう酒は麻酔が入っていたそうです。ですから、そのぶどう酒を飲むことによって苦しみから多少は解放されるのでしょう。ところがイエスさまはそれを受け取らなかったようです。十字架上の苦しみを全てその身に負いました。決して割り引くことなく私たちの隠された奥深くにあるその罪までも贖うために、その苦しみをあえて受けられたのです。
その中で主が言われたことは、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」でした。
私たちが問題を犯し、その身を危険にさらした時に、誰かにかばっていただいたような、そんな経験はあるでしょうか。自分の過ちのために誰か他の人を苦しみに追いやったことがあるでしょうか。
本来ならば、私たちは自分の罪のゆえに、自分がこの苦しみを負わなければならなかったのです。しかし、その私たちをかばい、私たちの過ちのためにあえて苦しみに飛び込み、さらにその中で私たちの罪を赦すように願っていてくださるお方がいたのです。
主がここで苦しみを受けている、それはまさに今日この場にいる全ての方々、皆さんのためです。そしてまたこれからこの福音に触れる人、さらにはこの地上に生を受けている全ての人のものなのです。
主は苦しみの極みにおいて、その人間性が、本性が一番現されるその時点において言われたのです。「彼らの罪をお赦しください」と。私たちはそのようにして赦されたのです。
この赦しをいただいたからこそ、今ここに写真が飾られた方々は神の御許で安らいでおります。そしてまた、私たちもこの方々と同じ所へと行くことが出来るのです。
十字架。それは決して見栄えの良いアクセサリーではありません。人に究極の苦しみを与えるものであります。しかし、その十字架によるイエスさまの執り成しによって私たちは赦されました。
私たちが赦された。そのイエスさまの十字架だけを誇れる者でありましょう。
B
パラダイス=悔改めた者への約束
十字架上で執り成しをするイエスさまに対して、人々の反応はどうだったでしょうか。同情的ではありませんでした。逆に罵ります。35節の議員たち。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」。37節で兵士たち。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」。そして39節同じように十字架に付けられた犯罪人の一人。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」。
それらの言葉に対して、一緒に十字架に付けられたもう一人の囚人は答えています。40節より「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。41我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」と。さらに言葉を続けました。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」。
彼のこの言葉は何を意味しているのでしょうか。その意味は二つあるでしょう。1つは、「神をも恐れないのか」と「あなたが御国においでになる」という言葉からわかるように、この男はイエスさまが神であることを知っている、ということです。
そしてもう1つ。「あなたが御国に行ったら、私のような罪人は行けませんが、せめて思い出して下さい」というのです。ですから、自分の罪を認めているということです。彼は、このところでは悔改めをしているのであります。
主は私たちのために、「彼らの罪をお赦し下さい」と執り成し、祈って下さり、さらに身代わりとして十字架について下さいました。
しかし当の本人である私たちが、その執り成しを受け取らなかったらどうなるのでしょうか?「そんなこと知ったこっちゃない。イエスが勝手にやっただけだ。俺は頼んでもない」というのであれば、イエスさまの執り成しは全く効力を持ちません。
私たちの赦されない罪。それは、私たちが自分で絶望してしまうことです。「赦しはない」。「救いは無理」等。
イエスさまが命をかけて私たちの赦し、救いを成し遂げて下さいました。子どもの命がけの願いを無視する親がいるでしょうか?子を犠牲にしてまで救いたいと願う父なる神が私たちを疎まれるでしょうか?
イエスさまが十字架上で私たちの身代わりになって下さった。その効力は、今まさに同じ十字架上で死のうとしているこの男にさえも有効でした。
主は言われました。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。
この楽園はパラダイスという言葉が使われております。「パラダイス」それはペルシャ語で、囲いのある庭という意味があります。功績を立てた者に特別な特権として与えられる褒美でありました。王と一緒にその庭を散歩出来る、という特権です。
主をメシアと信じ、悔いた砕けた魂を差し出すなら、私たちはパラダイス。神の庭において、永遠の命をいただいて、主と共に散歩することが出来るというのです。この地上ではない、天上の庭です。どんなに素晴らしい所でしょうか。そこを散歩出来る特権をいただけるのです。
この特権は、悔改めた者全てに与えられる約束です。主の前に頑なになることなく、この約束を頂いてまいりましょう。
主が命がけで私たちの赦しを得て下さいました。