喬木教会礼拝説教
2002年11月10日(日)

 墓に葬られる 

<ルカ福音書 23章44〜56節>

◆イエスの死

44既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。45太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。46イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。47百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。48見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。49イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。

◆墓に葬られる

50さて、ヨセフという議員がいたが、善良な正しい人で、51同僚の決議や行動には同意しなかった。ユダヤ人の町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいたのである。52この人がピラトのところに行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出て、53遺体を十字架から降ろして亜麻布で包み、まだだれも葬られたことのない、岩に掘った墓の中に納めた。54その日は準備の日であり、安息日が始まろうとしていた。55イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスの遺体が納められている有様とを見届け、56家に帰って、香料と香油を準備した。

 

 

@     幕が裂けた!!

神殿は神の栄光が現される場所でありました。その中でも至聖所は特別な所で、祭司でも年に一度、贖罪の日にしか入れません。

ですから、神さまから選ばれた民として、神さまに近いような気がするイスラエルの民でしたが、実際は神さまとの間には壁があり、本当の意味で近い関係は築いておりませんでした。選民でさえそうですから、異邦人にしてみれば、さらに厚い壁があり、神の存在はとても遠いものです。

イエスさまが十字架にかけられた時。昼なのに全地は暗くなりました。造られたもの全てがイエスさまの十字架を見るにしのびない、と言わんばかりにその光を失ったのです。そしてついにイエスさまが息を引き取るその前に、神殿の中で至聖所の幕が裂けたのです。

神さまが私たち人間との間に置いておいたその壁()を打ち破ったのです。神さまの側と、私たちの側とを隔てていた壁が打ち破られたのです。

このことで、私たちと神さまの関係は直接的なものとされたのです。私たちは恐れることなく、神の御座に大胆に近づきましょう。

 

A     勝利の宣言を聞こう

主は叫ばれました。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と。詩編316節に「まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます。わたしを贖ってください」とあります。この御言葉は、母親が子どもに教える最初の祈りだったとも言われております。主はこの聖書の言葉を、「父」と呼びかけて叫びました。

十字架上で、私たちの罪を負い、苦しみを負い、そして全てを父なる神の御手に委ねて息を引き取りました。

この死を目の当たりにした人々はどうなったでしょうか。相変わらず主を罵っていたでしょうか?そうではありませんでした。「47百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。48見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った」。

人々はイエスさまの十字架によって、その頑なな心を砕かれ、そしてショックを受けて帰路についたのです。

全てを父なる神の御手に委ねて息を引き取った。ここに私たちの勝利があるのです。何に対する勝利でしょうか?罪に支配され、頑なになっていた心を打ち破る勝利です。今、目の前で苦しむイエスさまを罵る人々が心砕かれたのです。

この勝利を常に私たちの前に置き、神さまの前に心を砕いて(柔軟にして)まいりましょう。

 

B     勇気を出そう

ここにアリマタヤのヨセフという人物が登場します。後に、伝説で最後の晩餐でイエスさまが使用した杯をイギリスに持って行くという人物です。

彼はイエスさまが70人議会、サンヘドリンで裁きを受けている時にその場にいたそうです。全議員がイエスさまを殺せと騒ぎ立てる中、そのことに賛成していなかったという人物です。実際にそこまでの内容が聖書には記されていないので、イエスさまを死刑にすることに反対していたとしても、そんなに声が大きかったわけではなかったのでしょう。いや、大声で叫んだところで仕方がない、と諦めていたのかもしれません。

通常、死刑になった人はそのまま放置され、ハゲタカなどの餌にされてしまうそうです。しかしエルサレムのでは祭りもあり、また律法でも定められていたので、死体を放置しておくわけにはいきませんでした。そこでヨセフがイエスさまの亡骸を受け取りたいとピラトに申し出るのです。

そのことが何気なく記されておりますが、実はこれは大変なことであります。そのようなことをすることで、彼は自分の身を危険にさらすのです。この後、イエスさまの弟子たちは、今度は自分たちが十字架につけられるのではないか、と恐れております。イエスさまの仲間であった、そのことに死を感じさせる恐怖がつきまとったのです。イエスさまの遺体を引き取りたい。それは、自分の議員生命はもちろん、肉体的な死をも招きかねない、という危険に自分から突っ込んでいく、ということになるのです。

ヨセフはこのことで命をかけて証を立てたのです。私たちはこのヨセフの行動を見習うべきではないでしょうか。この時点で、彼はイエスさまの復活や福音(罪からの解放)は理解していなかったかも知れません。しかし、自分の信じるところ、自分が立つ所、そのことを命をかけて証明したのです。

愛する者から、「あの人は知りません」と言われたらどう思いますか?ショックを受けますよね。

大事な場面で自分の信仰を証し出来ない。それは人々に、私は神さまを知りません。イエスさま?私とは無関係です。と宣言するのと同じなのです。

アリマタヤのヨセフ。彼は議会においての声は小さかったかも知れない。でも、イエスさまの十字架を前にして、自分の立っている所を、命がけで明確に証明しました。彼は、十字架を恥じる自分を、イエスさまと一緒に墓に葬ったのでしょう。主は、私たちの弱さ、罪、恥、これらを負って十字架で死んでくださったのですから。

肉の自分を墓に葬ったヨセフを見習い、私たちもこの世の中で証し出来るものでありましょう。