喬木教会礼拝説教
2002年11月24日(日)
復活の主に出会った
<ルカ福音書 24章13〜35節>
◆エマオで現れる
13ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、14この一切の出来事について話し合っていた。15話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。16しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。17イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。18その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」19イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。20それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。21わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。22ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、23遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。24仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」25そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、26メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」27そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
28一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。29二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。30一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。31すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。32二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。33そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、34本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。35二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。
復活の主に出会う。それが私たちの人生を変える
@ 主が会いに来て下さったことを覚えよう(15)
私が神学生の時でした。生半可に聖書を学び、神さまが何であるのかを知ったつもりでおりました。ですから、説教を聴いても感動も何もありません。あぁ、また十字架か…。また「悔改めろ」でしょう。わかっているよ。そんな感じです。
それで私の心の状態はどうだったでしょうか?喜びがあったか?幸せだったか?全然幸せではありません。下手に知識ばかり増えてきたので、人を裁く思いでいっぱいです。とても苦しかったですね。
そんな折、信仰を持った場所、シカゴに行く機会が与えられました。それでアメリカに行くと、しばらく忘れていた喜び、楽しい思い、という感覚が戻ってきたのです。それで思うわけです。やっぱり自由な雰囲気はいいなぁって。やっぱりこうでなければ恵まれないよって。
でも、そんな中で強烈に教えられたことがありました。というより神さまから語りかけられたのでしょう。「神さまはアメリカにしかいないのか。日本に行くと、神さまは弱く、小さくなってしまうのか」って。私はびっくりして答えるわけです。「とんでもない!!神さまは偉大なお方で、この世の全てを造られたお方です。何処にいてもその偉大さは変わりません」って。
その時に気付かされました。あれ?じゃぁ何でボクはアメリカでは恵まれて、日本では恵まれなくなっているのだろう。何処にいても同じ神さまであるならば、恵みも、喜びも、同じはずなのにって。
神さまと言う存在を、私は自分の知識の中に閉じ込めていたのです。神さまを自分の奴隷にしていたので、神さまの力を十分に受け取ることができなくなっていたのです。
エマオへ旅をしていた二人の人物は、イエスさまの弟子でありました。イエスさまといつも一緒にいた人物です。ですから、イエスさまが十字架にかかって死んでしまった、という事実がどれだけ彼らを落ち込ませていたでしょうか。彼らは肩を落とし歩いていました。
なぜ肩を落としていたのか。それは、彼らがイエスさまはどのようなお方であるのかを理解していなかったからです。イエスさまは常々「十字架につけられ、三日目に復活する」と言われておりました。なのに、弟子であったこの二人もそんな言葉は忘れ、ただイエスさまについていけば、新しい国が興る時には良い思いが出来る、みたいなことしか考えていなかったのです。
自分中心。イエスさまを、自分の欲望のために利用しようとしていただけの人物です。こんな人たちが弟子だなんて、とんでもないことでしょう?どう思います?彼らは落ち込むだけ落ち込んで行けば良いのです。全て自分で蒔いた種ですよ。イエスさまは最初から「十字架にかかる」と言っているのに、彼らが勝手に「この人は新しい王様になる」と期待してついて行っただけの人たちですから。
ところが、そんな自分勝手な弟子たち、また先ほどの話ではありませんが、自己中心な私、また神さまを利用しようとしただけの多くの人々の所に、イエスさまは来て下さったのです。
イエスさまがどのようなお方であるか、ご存知ですか?フィリピ2:6には「キリストは神の身分でありながら」とあります。ヨハネには「万物は言(キリスト)によって成った」(1:3)と言われます。キリスト・イエスは、神さまでした。その神が、神の姿を捨てて、自己中心でしかない私たちのところに来て下さったのです。なんと驚くことではないでしょうか。
生まれながらの人間、私たちは、本来、神さまがどのようなお方であるのかを知ることの出来ない存在でした。ところが、その私たちの理解を助けるために、神さまはその姿を捨て、人間になり、この地上に来て下さったのです。そして、私たちが理解出来るようにと、神さまの側から近寄ってきてくれているのです。
エルサレムからエマオへ向かう道。日没に向かい、意気消沈している、その弟子たちに主は近づいて下さった。私たちのところにも主が近づいてきてくれているのです。
A 信じるべきものを信じられる心を持とう(25〜)
私はもともと賭け事が好きなのですね。競馬とかパチンコとかをするわけではないのですが、でも、お金をかけること、食事をかけること等、今でも遊び半分で賭けをするわけです。
私が信仰を持つ時、やはり同じ気持ちでした。イエスさまに従う。本当に良いことなのか、それとも洗脳されて、実は間違っていることなのか?私は自分なりに情報を集め、色々と計算をし、そしてイエスさまに賭けることにしました。イエスさまに賭けて、私の人生はどうだったか。間違いありませんでした。
そこでふと思うわけです。私はイエスさまに賭けて自分の人生をそこにつぎ込んだ。で、もしイエスさまに賭けなかったら、自分は何に賭けていたのだろう?と。
考えてみると、私たちは絶えず賭けをしているのではないでしょうか。常識に従って行動するのも、常識に従った方が間違いなさそうだ、ということに自分を賭けるわけでしょう。常識をやぶってでも自分の思い通りにする、と言う場合も、自分の思いに後の自分を賭けてその行動をとる訳です。
ですから、イエスさまを信じない。従わない。という場合は、知らずに自分に賭けていることになるのです。そして自分に賭けた場合、賭けに負けると自分でその負債を払わなければならなくなるのです。負けても負債を払わない、というと問題ですよね。イカサマだとか言われて信用もなくしますよね。
弟子たちは、イエスさまが死んでしまった!!もう自分たちの人生は終わった!!と落ち込んでいるのですから、あたかもイエスさまに全てを賭けているようでした。ところが、イエスさまの伝えていたメッセージを聞いていない。イエスさまの復活を信じない。彼らはイエスさまに従い、弟子になっておきながら彼らはイエスさまに賭けていませんでした。
彼らが賭けていた所は、当時の常識です。この時期、イスラエルにメシアが現れる、という雰囲気が漂っていたのです。聖書に記された預言、そこから解釈される時期、兆候、それらを見て、そろそろメシアが来る、と多くの人が信じていた時期なのです。そして人々は、そのメシアこそがダビデのようにイスラエルを独立国にしてくれて、また昔のようにイスラエル王国を築く方だと信じていたのです。
弟子たちが賭けていたのはそこでした。イスラエル王国。当時の常識。だからイエスさまが十字架にかかるという事態は、(イエスさまが語っていたことであるにも関わらず)考えられない非常事態なのです。
そこでイエスさまは嘆きながら言いました。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、26メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」と。
預言者の言うこと。イエスさまが語ること。それらは確かに私たちの住む世の中の常識で測ると、時にとんでもないことを要求されたりすることがあります。その時が私たちにとっての勝負どころです。
イエスさまの言葉に賭けますか?それとも自分の考え、世の中の常識、周りの人の要求に賭けますか?
27節。イエスさまは聖書を根拠に、ご自身が救い主であり、その預言の正しい理解を弟子たちに伝えたのです。
世の中の考え方は時代と共に変わり行くものです。しかし聖書は永遠に変わらない書物。永遠に私たちの基準となる書物、神の言葉です。ここに私たちは賭けて行きましょう。それは信じていくということです。
B 証しをすることに戸惑うな(33)
子ども頃、「ちくり魔」という言葉がありましたが、聞いたことあります?何でも「ちくる」、「告げ口する」という意味です。で、私がその「ちくり魔」だったのです。別に友達が憎くて「ちくる」ということはしたことはありません。ただ、面白いことがあった。面白いことを言っている人がいた。あんなこと、こんなことがあった。その事実を面白く思うものですから、つい人に言ってしまっていたのです。ただ、私の思う「面白い」が人に告げられたら困るようなことであった場合が多かったので、私は「ちくり魔」になってしまいました。
日本人は特に色々なことを人に告げて回ることを良しとしませんね。寡黙であることが美徳とされています。そして「能ある鷹は爪を隠す」みたいな、黙っているけどいざやってみたら何でも出来る、みたいなことを喜ぶわけです。
でも、アメリカにおいては全く違いました。自分の出来る以上のことを宣伝するように教えられました。全然出来ないのに「出来ます!!」と言ったり、知りもしないのに「知ってます!!」というのです。これも日本で育った私には非常に違和感のあることでした。でも、寡黙を美徳とすることにも疑問が沸いてきました。
そこで聖書はどうすることを求めているのか、ということを見てみますと、自分のやった良い行いなどに関しては「右手のしたことを左手に知らせるな」という程、黙っていなさい。と言っておりますが、本当に大きな喜びに関しては、黙っていないで出来るだけ多くの人に伝えなさい。と言っているようです。
エマオに向かっていた二人の弟子は、最初、目が遮られていたので、イエスさまを識別することが出来ませんでした。ところが、パンを裂くイエスさまを前に、その目が開かれました。そしたら、彼らはイエスさまを見たのです!!なんと驚くべきことでしょうか。
そして彼らは聖書の語る預言と、イエスさまが語られた全てのことが理解出来ました。彼らは神さまの御心を知りえたのです。その時、彼らはどうなったか。「心が燃えていた」のです。興奮したのです。喜びの興奮です。
その結果、彼らは黙っていることが出来ませんでした。彼らは「時を移さず出発して、エルサレムに戻って」しまったのです。もう時間も遅く、あたりは暗かったことでしょう。今と違って外灯もない時です。その時間に11kmも彼らは走ってエルサレムに戻ったのです。何度転んだかわかりません。エルサレムに着いた時は傷だらけだったかも知れません。それでも彼らは黙っていることが出来なかったのです。「私たちは復活の主に出会った!!」
誰もが驚き、下手すれば変人扱いされてしまうはずのその事件に対して、他の人々は今一驚きませんし、変な目で見られることもありまえんでした。なぜなら、そこにいた使徒たちも同じ経験をしていたからであります。
私たちは不思議と、同じ経験を過ごすことによって互いの仲を深めていくものです。また、喜びを分かち合うことによって、喜びに喜びが重なるのです。
主に出会った。死んで、もう終わりだと思っていたことが、実は終わりではない。ここからまた新しい人生が始まる。ここから本当の意味で、主と私との関係が始まる。主が大いなる業をなしてくださった。限界、終わり、そう思っていた所が、希望と喜びに満ち溢れたスタート地点となりうるのです。
復活の主に出会う。この事実が私たちをこれからも生かし、また人を慰め、強めるものであるのです。
復活の主に出会ったこと、その事実を互いに分かち合い、喜びを共にいたしましょう。