喬木教会礼拝説教
2002年12月1日(日)

平和があるように

<ルカ福音書 24章36〜53節>

◆弟子たちに現れる

36こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。37彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。38そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。39わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」40こう言って、イエスは手と足をお見せになった。41彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。42そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、43イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。

44イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」45そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、46言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。47また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、48あなたがたはこれらのことの証人となる。49わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」

◆天に上げられる

50イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。51そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。52彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、53絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。

 

@主の前に立つ時の恐れ

弟子たちは、今先ほど復活したイエスさまに出会った!!ということを話合っておりましました。そんな時に「平和があるように」と言って、本当にイエスさまが自分たちの真ん中に現れたのです。もし、私たちの真ん中に、実際に肉と骨を持ったイエスさまが現れたら、私たちはどんな気がするでしょうか?

弟子たちは、イエスさまに出会ったことを喜んで報告しあっておりました。その弟子たちですが、彼らの反応はどうであったかと見てみると、37節「37彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」のです。「喜び」であるはずの再会が「恐れ」に変えられております。なぜ恐れなのでしょうか?

皆様は「預言の賜物を持っている」という人に会ったことはありますか?

私は数人、預言の賜物を持った方にお会いしました。実際に自分の必要を教えられたり、将来への素晴らしい約束を語っていただいたりしたのですが、内心は恐れでいっぱいでした。それは、「預言の賜物」と聞くと、私たちのプライベートまでも見透かされてしまうような、その人の前では一切の隠し事が通用しないような、そんな気がしてしまいます。

自分の心の中にある闇に光が当てられてしまう、そのことに人は恐れを覚えるのではないでしょうか?

弟子たちは、実際にイエスさまを裏切り、見捨てて逃げ出した人々です。エマオ途上の弟子たちも、生きて一緒にいるイエスさまに対してイエスさまがメシアではなかったとか話しているのです。イエスさまにとても顔向け出来ないようなそんな恥ずかしい部分をたくさんもっているのです。

その弟子たちの前に、イエスさまが立たれたのです!!

イエスさまが復活された。それは嬉しい出来事。誰からがイエスさまに出会えた。これも嬉しい知らせ。そのイエスさまと出会った経験を分かち合い、皆が喜びに満たされる。それは素晴らしいこと。では、実際に自分がイエスさまを目の前にして出会ったならばどうなるのでしょう!?弟子たちは恐れました。あなたは?

私たちの全てを知っておられるお方が、今、インマヌエル(主は我らと共におられる)となって、いつも私たちと一緒にいて下さるのです。主の目から自分を見ることが出来ますか?私たちの罪の深さ大きさを知ることが出来るでしょうか?出来る方は幸いです。なぜなら主は、私たちの真ん中に立ち、「平和があるように」と言われているからです。

主の前に立つ。それは自分の罪、弱さが明らかにされる時であるから、恐れの時でもあるのです。でも、その私たちに主は「平和」を願われております。

 

A主が共に立って下さることの喜び

しかし、だからと言って簡単に私たちの心に平和が生じるでしょうか?そこまで単純には出来ていないですね。自分の弱さ、汚れ、罪を見透かされている。その方の前で平和を持てと言われても持てるものではない。

そのために神さまはどうされたのでしょうか?神であった御子を、私たちと同じ人間としてこの世に送りました。目的は、私たちの罪を取り除くためであります。

主は恐れている弟子たちに手や足を見せました。弟子たちはこの復活したイエスさまが私たちと同じ人間であることを徐々に理解し始めました。そして恐れが喜びに変えられてきたのです。さらに主は魚を弟子たちの前で食べられました。私たちと同じように食べてくださったのです。この姿。神であったイエスさまが、その姿に固執することなく人となって下さったことを非常によく現して下さったと思うのです。

私たちの罪を取り除くためには、罪のない人間でなければならなかったのです。まさに主は復活され、神であることを示され、さらにここで肉や骨があり、また魚を食べるということで、イエスさまが私たちと同じ人間であることを示してくださったのです。

この事実から「平和があるように」と語られたその言葉が、人間の上の方で響いているだけの言葉ではなく、私たちの心の底から、私たちの存在そのものを包み込むような言葉となったのです。

主が願われているのは、平和です。本当に私たちの心に平和があるのであれば、私たちを取り巻く環境、人間関係、そこにどれだけの平和を築くことが出来るのでしょうか。

今週よりアドベントに入りました。イエスさまは私たちの心に平和を与えるために、人となって下さった、そのことを記念する時期に入ったのです。私たちと共に立って下さる主。だから、私たちの弱さ、罪に同情できないお方ではないのです。だから、私たちの罪を解決するために主は十字架にまでかかって下さいました。

私たちの弱さのゆえに十字架にかかられたお方は、今、私たちの弱さや罪をただ指摘し、責めるために立たれているのではなく、弱さや罪を持つ私たちが、このイエスさまと共に、罪に勝利し、心からの平和をいただけるようにしてくださるのです。そのことに感謝を持って、受け入れ、クリスマスに備えて行きたいと思うのです。

 

B主を正しく理解することの感激

弟子たちの中にはイエスさまを政治的な解放者、メシアと思っている者もありました。そしてイエスさまを自分の欲のために利用しようとしていたのです。しかし、イエスさまが復活され、もう一度預言書から聖書の語ることが何であるのかを教えられた弟子たちは、その目が開かれたようです。そして、聖書の語るメシアを(多分、)正しく理解したのでありましょう。

彼らは昇天したイエスさまを見送り、その後はただただ喜びに満たされ、境内でいつでも主をほめたたえております。

世の中にはたくさんの宗教があります。その多くがご利益宗教でありましょう。ご利益宗教とは、自分の欲求を満たすための宗教です。利益を得ることが出来なければ簡単にやめてしまえるものです。

時折、キリスト教もご利益宗教と間違えられることもあります。神さまにお願いする。だから全てがうまくいく、と。確かに聖書の中には、神さまから祝福される者が大金持ちになったり、王様になったりしている記事もあります。しかし、それらは聖書が語るメッセージとは違いますね。

聖書が語るメッセージは、私たち人間は生まれながらに罪を持っている。そしてその罪を贖うために救い主がこの世に送られた。だから、信じて救われること。そして後は全能の主が完全であったように、私たちも完全であるように、という内容です。

そして、私たちが聖書のメッセージを正しく受け取れるのであれば、神さまを喜び、信仰生活を喜んで送ることができます。でももし、神さまを正しく理解出来なければ、ある弟子のように思い違いをして、「いつ私の欲求が満たされるのですか」と問い続けてしまうのかも知れません。

残念なことに、私たち人間の知恵では神さまを正しく理解することは出来ないようなのです。どうしても自分の欲望が先に立ってしまう。だから、私たちは「高い所からの力」に期待し、この力に満たされて聖書を読み、本当の神さまを正しく理解する必要があるのです。

誤解を持ち続ける人間関係は喜びを生み出しませんね。お互いが正しく理解し、関係を持ち続けることが喜びであり、楽しみであり、力であり続けたいと思います。

 

イエスさまが願われたこと、それは私たちに平和があることです。その平和は私たちが正しく主を理解し、その主といつも共にいることです。その関係を崩そうとする罪には、絶えず十字架につけ、主との関係を喜びあるものにしてまいりましょう。