喬木教会礼拝説教
2002年12月8日(日)
神の子となる資格
<ヨハネ福音書 1章1〜18節>
◆言が肉となった
1初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。2この言は、初めに神と共にあった。3万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。4言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。5光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
6神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。7彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。8彼は光ではなく、光について証しをするために来た。9その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。10言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。11言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。12しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。13この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
14言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。15ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」16わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。17律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。18いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。
@資格を得よ
皆さん神さまという存在がどのようなものであるのか、じっくりと考えることはあるでしょうか?
クリスチャンでなくても「神」という存在については誰もが考えることであると思います。ただ、日本においてはあまりにも多くの神がいるので、「神さまを知っている?」と聞くと「どの神様?」と聞き返されてしまいます。
あまりにも多くの神が存在するわけですが、その中でもやはり聖書に記されている神こそが最高の神であると思えてなりません。なぜなら、その神がこの世の全てを造られてお方だというのですから。しかも、無作為に造られた世の中ではありません。驚くほどしっかりとした秩序を持って造られているのです。ですから、自然界、科学を知る人ほど、天地万物を造られた偉大な神の存在を素直に認めます。
私が話をするのは全てのこの全てを造られた神のことであります。この神について考えることがあるでしょうか?というのも、考えれば考える程、素晴らしいお方でることを私たちは知るからです。
その中でも一番素晴らしいことは、私たちに光を与えて下さるお方である、ということです。
火を発見し、その使い方を習得し、現在光は何気ない形で様々な所で用いられているわけですが、その光の無い生活を想像してみる時に、私たちの生活に光がいかに大切であり、いかに依存して生活しているのかを知ることが出来ると思います。
光のもたらす恵みは目に見える生活だけに留まりません。私たちの真理に対する理解にまで及びます。
私たちが闇の中にいるならば、目を開いていても見ることは出来ません。しかし、明るい光の中に行くならば、見えなかったものまでが見えるようになるのです。見るべきものが見えない、又は知らないで生きていくと、心からは自然と喜びや感動、感謝の思いが消えていくものです。
神の子としての資格を得る。それは私たちの肉眼で見る以上の真理を見出すことであります。ですから、正しい選択をすることが出来るようになり、心に喜び、感謝、感動を絶えず持つようになるのです。神さまはそのような生涯に私たちを絶えず招いておられます。
A資格を得るための道
では、どのようにしたら神の子となる資格を得られるのか。聖書は明確に語っております。「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」(12節)。信じるだけでその資格を得ることが出来る、と語るのです。その資格を与えるために、言はわざわざ人となって、「14言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」のです。ですから、この言こそがイエス・キリストであることを示しているのです。
私たちが自分の力でどんなに努力しても得ることの出来ない心の満足、平安。決して見ることの出来ない真理。それらのことを、神である言(イエス・キリスト)を信じるだけで私たちは得ることが出来るというのです。
ただ信じるだけです。だから難しいことではないですよね。世の中ではさらに難しいことを信じている人がたくさんいます。例えば進化論ですね。サルが人間に進化したと本気で信じるくらいですから。それに引き換え、自然界をもってして証明されている天地万物を造られた神さまを信じることの方がどんなに楽で、簡単なことでしょうか。
それでも、やはりこの言を受け入れるのは人間にとって難しいことでもあるようです。なぜなら、「11言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」とあるように、人は基本的に言を拒否してしまう性質を持っているようなのです。なぜなら、人はある程度暗い方が都合良いからでしょう。
暗い方が自分の弱さ、罪、知られたくない秘密、それらが明るみに出されないので、安心して生きていけるのです。でも、本当にそれで安心しているのか?というと安心していないですよね。自分の明るみに出したくない思いから解放されたい、と心のどこかで願い続けているのではありませんか?
神の子としての資格を得る時、私たちは光の中に住む者へと変えられるのです。そして、神の子となるには、私たちの間に宿られた言、イエス・キリストを信じることなのです。どのように信じるのでしょうか?それは私たちを闇から救い出して下さるお方として信じるのです。光の中に住む資格を与えて下さるお方として信じるのです。
理性において、信じるだけで闇(罪)から解放されるなんて納得出来ない等、と言われる方でも信じることをお勧めします。そして信じてからなお理性においてその点を突き詰めて行けば良い。何にしても信じる者に神の子としての資格を与える、といわれているのですから、信じた方が良いでしょう。
B資格を得た者の歩み
では、信じて資格を得た者は、それから先どのように生きていくのでしょうか。
この世には闇の世界と光の世界があるようですね。そして「5光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(口語訳「やみはこれに勝たなかった」)とあります。ですから、闇と光は相反するものであり、光が闇よりも強いようです。
ですから、光の中に住みながら、闇の生活をすることは出来ないようなのです。ですから、私たちの生活は「足と体は闇だけど、手と顔は光です」という状態は存在しないということになるのです。
神さまは、私たちが完全に光の中で生活できるようにと、言であるイエスさまをこの地上に送ってくださったのです。そしてそのイエスさまによって、私たちは闇の生活から解放されました。どのようにしてでしょうか?
神の御子が私たちの闇の部分を背負い、十字架つくという行為によってでありました。
ですから、言が肉となって私たちの間に宿れば全てが終わりかというとそうではなく、勝てないのに光に対抗しようとする闇の部分を打ち砕く必要があったのです。そして言であるイエスさまが十字架によってその闇を打ち砕いて下さいました。
今私たちは、自分の中で闇に属している部分、闇を慕い求めてしまう部分、それらを全て十字架のもとにさらし、打ち砕いていただきましょう。そして、いつまでも、光の中を歩み続けましょう。そうすれば、私たちの心の平安、喜びは決して消えることはありません。