喬木教会礼拝説教
2002年12月15日(日)

荒れ野で叫ぶ声

<ヨハネ福音書 1章19〜28節>

◆洗礼者ヨハネの証し

19さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、20彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。21彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。22そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」23ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」24遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。25彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、26ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。27その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」28これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。

 

@ 時代の波に飲まれずに新しい神さまの業に備えよう

私が赴任した年、心の時代だから、教会の働きに励んで下さい、という励ましの言葉を村の方から頂きました。もう「心の時代」と言われて随分経つ訳ですが、社会を見る時にその「心」に対する教育がまるで出来ていない現状を知らされます。

今までの教育システムが問題視されて何年も経ちます。学歴が社会ではあてにならないと叫ばれ、学校が週休二日制になったにも関わらず、さらに、日本の学生の学力は世界でもトップクラスであるにも関わらず、相変わらず「学力の低下」が問題とされ、教育環境はほとんど変わる気配がありません。

なぜでしょう?それは良いとわかっていても、それが出来ないという人間の弱さがあるからではないでしょうか。特に日本人は一致団結を尊びますから、自分の所だけが違うことは出来ない、となるのです。

新しい働きがなされようとすると、それを敵対視してしまう人間の弱さがあるのです。それは教育界だけではありません。多くの企業、組織、そして本来新しくされ続けなければならないはずの教会までもが新しくされることに怯え、古い体質を求め続けてしまうのです。特に教会はその性質が強いのかも知れません。「30年前の教会を知りたければ教会に行くと良い」という言葉を聞いたことがありますか?

バプテスマのヨハネが登場し、人々に洗礼を授けること。これは当時の伝統によって土台を築き、律法と言う鎧を身につけた宗教界に大きな石を投じたことになるのです。その波紋の中で怯えた人々が人を遣わし、ヨハネに尋ねます。「あなたは誰で、なんで洗礼を授けているのですか?」

一般的に慣れ親しんでいたもの。そこに異変が生じる。多くはその異変を受け入れられない。私たちの歴史はこのような事件が繰り返し起こり、その中で社会が改善されているのではないでしょうか。このヨハネ福音書もそのような変化をもたらしたものの一つであるのです。

新しいことが起こる。その時に備え、心を柔軟に、主の業を期待し続ける者でありましょう。

 

A 教会において神の国を現し、自分の土台としよう

当時は異邦人がユダヤ教に改宗した時に洗礼を授けたそうです。だからヨハネのしていることは、宗教家にしてみたら理解出来ないものでした。

ヨハネは水でバプテスマ(洗礼)を授けていました。これは他の福音書を見ると「悔改めのバプテスマ」と呼ばれております。それは神の国に入るための手段と呼んでも良いのかも知れません。

現在も私たちは洗礼式を聖礼典の一つとし非常に重んじるわけですが、それは、神の国に入るための入国許可証をこの教会において発行するようなものだからであります。神の国に入る資格を持った者が集う場所。それが教会となるのです。ですからイエスさまは言われました。「神の国はあなたがたの間にある」(ルカ17:21)と。

最近は「危機管理」という言葉が頻繁に使われております。これだけ大手で絶対潰れない、と思っていた企業が次々に破綻していく訳ですから、私たちは常に危機と隣り合わせにいる、ということでいざと言うときに備えていく必要があるわけです。

では、危機管理をしようとする時に、私たちが一番重要に考えなければならないことは何でしょうか?大きなことを考える時にはやはり根底、土台となっているもの、自分のアイデンティティのような、自分がそこにいる使命感などから確認していくことが重要ではないでしょうか。

つい人は目先の問題にばかり捕らわれてしまい、なぜ自分がその問題にぶつかっているのか、なぜ自分が苦しんでいるのか、その奥底にある問題を見ようとしません。いや、見る余裕を失ってしまいます。

表面の問題だけを成り行きにまかせてのらりくらりしている時に、いざという時とんでもない行動をしてしまうものなのです。日本の領事館に入り込んだ中国の武装警官に対する態度。それは「平和ボケ」している、自分の国の主権を守れない、という批判が飛び交っておりました。

もし、私たちの自覚、神の国に属している自覚、神さまから目的を与えられ今を生きているという自覚がしっかりと根付いていて、その自覚の上に今の生活を組み上げるのであれば、私たちは人生の土台を据えたことになります。その土台をしっかりと形成できる場所が、この地上において神の国を現す「教会」なのであります。

「教会と言ったって、しょせんは人の集まり。多くの問題があるでしょう」という声もあります。当然です。その様な声にはこう答えましょう。「だから何ですか?」と。問題があったっていいですよ。それでも揺るがないのが土台です。神の国です。多くの問題が吹き荒れていても、地を揺るがしても、それでも建っていられる方がより証しになるでしょう。

ヨハネは道をまっすぐにする。土台を据えるその先駆者として来たのです。私たちに揺ぎない土台を示すために、私たちが神の国に入る門を示すために来たのです。そして私たちはその道を通りました。

毎週教会に来る。それは神さまの招きであります。この教会において、私たちは自分の土台を確認しましょう。ここに生きていること、生かされていること。そしてここからまた遣わされていることを覚えましょう。その時、このヨハネのように、尋ねられた時に自分の使命を明確に答え得る者とされます。

 

B 主から愛を受け、自分の全てをもって主を証ししよう

自分の使命をしっかりと握り、どんな社会的な圧力にもめず、真理を語り続ける人。こんな人はかっこ良いですよね。それがヨハネでした。だから多くの人が彼のもとに行き、洗礼を受けていたのです。それが社会現象のようになっていたので、当時の祭司たちが無視出来ず、彼の所に人を使わしたのです。

そんな彼でしたから、当時から教祖にはなりませんが、ユダヤ教の一派としてバプテスマのヨハネに従うグループが登場しました。ヨハネ福音書が書かれた時代にあっても、そのようなグループがあったようで、この福音書にはそんな人々に対するメッセージも含まれているのです。

どんなメッセージかというと、バプテスマのヨハネ自身が証していることです。すなわち、「私はメシアではない。後から来るお方(メシア)の靴の紐さえほどく資格もない者だ」ということです。靴の紐をほどくのは、奴隷の仕事でした。ヨハネはメシアの前に立つ時に、自分は奴隷以下である、と述べたのです。

バプテスマのヨハネがしたこと。それは多くの人々を集め、魅了した。でも、その栄光は自分で受けずにひたすらに主にお返ししたことであります。自分の全存在をかけて主の栄光を現したことです。

私たちは何か良いことがあったら、その手柄は全て自分のものにしたいと思うものです。ましてや、必死に努力して得た手柄、栄光、誉れ。それらを人に譲ったり、奪われたりしたら、気持ち良いものではありません。では、人に奪われるのはシャクだけど、神さまになら奪われて良いのでしょうか?普通なら、それも赦せないでしょう。

でも、本当に素晴らしい方に出会う時、その方のためになら自分の全てを捧げても良い、と思うものです。それが結婚相手であったり、もしかしたら会社やそこで扱っている製品、であったり友人であったりします。

私たちが心から敬服する方になら、自ら進んで自分を無にしてでもその方の栄光を表そうとするものです。

ヨハネは自分の手柄も何もかも、全てはメシアのためへの備えだと言いました。それは、彼はそのメシアがどれだけ素晴らしいお方であるのかを十分に知っていたからなのです。そのお方の素晴らしさに比べれば、自分は奴隷になる価値もない、そのことを本当に知っていたということです。

メシアとはどのような方だったでしょうか?私たちの罪を背負い、私たちの代わりに咎を負い、私たちの代わりに死んで下さるお方です。世の罪を取り除くお方です。

私たちの罪を背負い、私たちの代わりに死んで下さるとはどのようなことでしょうか?それは、私たちのことを本気で、命を賭けて愛しぬくということであります。そのようにして私たちを愛しぬくお方がメシアだというのです。

そしてこのメシアによって示された愛は、神さまが私たちに対して抱いている愛そのものでありました。

命を賭けた愛。それが示されたクリスマスを迎えようとしています。これは同時に、再び来られると言われた主に対する備えの日でもあります。

私たちを愛し抜かれ、罪から解放して下さったお方を喜び祝いつつ、今自分が自由にされ、存在しているのは全てこのお方によるものである、という事実を立派に証してまいりましょう。