喬木教会礼拝説教
2002年12月22日(日)

罪を取り除く方

<ヨハネ福音書 1章29〜34節>

◆神の子羊

29その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。30『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。31わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」32そしてヨハネは証しした。「わたしは、"霊"が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。33わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『"霊"が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。34わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」

 

見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(29)。

今まで何気なく読んでいた箇所ではあるのですが、この言葉を発した時のヨセフの心はどのような状態だったでしょうか?おそらく、喜びと興奮が入り混じっていたのではないでしょうか。

今年、コンサートを教会関係外の所でさせていただいて、教会を知らない方々にメッセージを伝えました。その時に考えたのですが、自分が立っている「土台」。これがなければ、コンサートにおいて語ることもなければ、自分の歌も生まれてこなかったであろう、ということです。

私は18歳の時に初めて聖書に出会い、教会に導かれ、イエスさまに出会いました。そしてこのイエスさまが神であること。私のために命を捨ててくださったこと。十字架にかかるまでに愛してくださったことを知り、本当に感動しました。

アメリカで過ごした初めてのクリスマス。クリスマスの照明や人形を見る度に、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ!!」と叫びたくなる思いでした。

私の人生。18やそこらでしたから、もちろん深いものは何も持っていない。でも、自分なりのフワフワした考え方があって、自分なりの土台を持っているつもりでした。それが今になって思えば、実に幼稚で、頼りにならない土台でありました。

私の土台。それはイエスさまに出会ってから、徐々に築かれてきました。この土台は未だに完成せず、築いている段階です。それでも基礎の部分が定まったお陰で、コンサート、メッセージが生まれてきたのであります。

私達に基礎、土台を提供し、生きる喜びを与えてくれるもの。それがイエスさまとの出会いでありました。

神さまからの使命によって働いていたバプテスマのヨハネです。この時、ついに待ち焦がれていたイエスさまに出会ったのです。冷静に、淡々と「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」などと言えるでしょうか?興奮せずに、また喜びに満たされずにおれるのでしょうか。この時の喜び、興奮。これを私達は生涯もち続けたいものです。

皆さんはしっかり人生の土台を持っているでしょうか?

イエスさまとの出会い。これが私たちの土台になります。聖書は私達に生きる土台を提供してくれているのです。

 

見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ

土台に傷があったらどうでしょうか?ヒビが入ってたりしたら?もしかしてぐらついていたら?

私達はある程度年齢を重ねれば、世の中のことはわかります。そして要領が良ければ、上手な生き方が出来るわけです。何もかもわかったような顔をして子ども達を教えることが出来ます。でも、本当に自分に自信を持ち、自分の土台を示すことが出来ますか?

私達が持っていた土台。それは傷ついています。否定的概念の中で育てられた自分。この土台の上に自分の好きな建物を建てようとしても、周りの目が気になる、「無理だ」と言われる。そしてついには自分の好きなような自分を築けず、コンプレックスを持ったまま成長してしまう。

イエスさまとの出会いが土台を与えます。その土台がどのようなものであるのか?その土台は「罪を取り除いた」土台であると言えます。

「罪」って一体何でしょうか?この言語はギリシャ語で「ハマルティア」と言います。それは「的外れ」の意味です。本来あるべき姿から外れた生き方を意味します。本来あるべき姿で生きていない、その生き方を聖書は「罪」と呼んでいるのです。

「世」とは何でしょう?神さまが愛する対象です。ですから、全ての人を指します。全ての人を指す訳ですから、あなた個人の名前をこの「世」と置き換えて下さい。あなたから罪を取り除く、それがイエスさまなのです。

私達は都合悪いことは隠したいものです。でも、その都合悪い部分。本来の自分でない部分が、イエスさまを受け入れる時、取り除かれるのです。都合悪い部分がなくなったら、私達はどうなるでしょう?全てに対してオープンになりますよ。神さまの恵みを疑うこともなく受け入れることが出来るのですから、心は喜びに満たされます。

私たちのあるべき姿。それは、私たちの造り主である神、このお方と生きることです。その時、心からやましさは取り除かれ、心は喜びと平安で満たされます。これが私たちのあるべき姿なのです。神さまはそのような所へ私達を招いてくれているのです。

 

見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ

どのようにして私たちの傷、コンプレックス、罪を取り除くのでしょうか?この罪を取り除くために神であったお方が人となり、そして「小羊」と呼ばれているのです。

私達が負債を抱えた場合、どのようにしたら解放されるのでしょうか?負債を支払えば良いのです。罪から解放されることも同じです。犯した罪を負債と考えれば良い。その負債を埋める何かを支払えば良いのです。

では何を支払うべきか?それはこの世を造り、秩序を造られたお方によって定められたものを、決められた方法で支払うしかありません。ではそのお方はどのようなものを支払うべきだと言っているのでしょうか?

「血」です。旧約聖書を見てみると、私たちの犯した罪は、その血(命)によってしか支払えないというのです。そのために、人々は身代わりとして動物に自分の罪を移し、その動物の血を人の代わりに流していたのです。

今、神の御子が「小羊」となって私たちの所に来て下さいました。それは、この方に私たちの罪を移せ、ということなのです。罪を移せば、この方が十字架において血を流し、私たちの罪という負債を全て支払って下さる、ということなのです。

なんということでしょうか。神は、ご自身の独り子を、人の罪を背負わせるためにこの地上に送られたのです。誰が自分の子に、全ての人の負債を背負わせたいでしょうか?でも神はそうして下さったのです。だから、今私達が自分の罪を一つ一つ告白し、それをイエスさまに移すのであれば、私たちの告白した罪は赦されるのです。

ヨハネが告白しているように、このお方は「先におられた」方です。それはこの世を造られた神であることを示します。この方が私たちの罪を背負うために来られたのです。この方こそ、私達に「聖霊によって洗礼を授け」て下さるお方です。私達個々人の内に住んで下さるために来られたのです。

クリスマス。特にイエスさまが来られたことを祝う時ですが、ただ遊びに来たわけではない。私たちを愛するゆえに、私たちの罪を背負い、この罪に支配された暗い世にあっても私達を光り輝く子とするために来て下さったのです。

主のご降誕、そして再び来られることに感謝と希望を持ちながら、クリスマスを祝いましょう。